低スペックポンコツアラサー女、どうして人生こうなった?を考える。その1

今日も日記を開けてよかった〜
シリーズにすることで、この日記が続くことを祈りたい。

私は幼少期から人のイライラや怒っている姿にすごく敏感で、
その態度の原因が自分ではないことを祈っていた。
怒られることは避けてきたせいで、一瞬の安堵感はあるものの、
素晴らしく打たれ弱い正確に育ってしまった。
本日は、自分が怒られるのが嫌いになった原因=回避してきたこととして、
色んな「逃げ癖」を思い出していく。

逃げ癖エントリーNo.1「ピアノの先生」

 ピアノの先生が本当に怖く、一定期間課題曲を合格できないと、先生の家に練習合宿に行かなければならない、「おのこり」ルールがあった。
当時、姉と2人で習っており、姉は先生によく怒られていた姿を見ていたし、もちろん「おのこり」合宿に参加したことがある。
先生は大きな声を出すし、キツイ言い方だったので本当に怯えていた。
「おのこり」がかかったピアノの日は大泣きして部屋に閉じこもってボイコットを何度したかわからない。

逃げ癖エントリーNo.2「小学校の発表」

 小学校1・2年生のとき、幼稚園の時から意地悪をされてきた女の子と同じクラスだった。すごく嫌だったが、一番最悪だったのはその子とペアになって何かを発表しなければならないことがあった。
私はその子とできる気がしなかったのと、何を発表していいかわからずズル休みをした。
 他にも学級委員長になぜか推薦され、断りきれずやる羽目になってしまった。嫌すぎて各クラスの学級委員が集まる日には学校をズル休みした。恐らくこの時に仮病を使いすぎて、仮病に慣れていた。我ながらずる賢くて呆れている。

逃げ癖エントリーNo.3「バレエレッスン」

 実は3歳からダンスを習っていて、ダンスの先生がディズニーダンサーで、ダンサーになるならバレエは必須!みたいに言われていたため、小学校3年生の時に家の近くにバレエスタジオができたタイミングで通い始めた。
 しかし、ダンスもお遊戯レベルでしか習ったことがないのに、調子乗ってやったこともないバレエに首突っ込んだら、まあできない。
ダンスとは全然違うし、踊りも全然覚えられず、全く好きになれなかった。
 そこで繰り広げられるボイコット活動。母親にいっつもブチギレられながらボイコットを継続していたせいで、ほぼ通った記憶はないが、とりあえずさっさと辞めた。
 その後もダンスは好きだったからバレエも挑戦しないと!と一心発起し、中学生で1回、高校生で1回、大学生で1回チャレンジしたものの、無理だった。全く続けられなかった。

逃げ癖エントリーNo.4「部活」

 私には3つ上の姉がいる。小学校4年生になると小学校の部活に入ることができ、姉が音楽部(吹奏楽)に入っていたのをみていたので、自分も4年生になったタイミングで部活に入った。
 部活に入ると、週に2回ほど放課後の練習、朝練は確か毎日あった。その時から怠惰な人間だったので、放課後の時間を奪われるのがすごく嫌だった。ここだけの話、私はトランペットを担当しており、先生にもよく褒められるので周りよりも上手くできていたが、上記のような理由で1年で退部した。特に心残りも向上心もなかったが、あの時続けていたらどうなっただろうとは思う。
 この関係で、中学も放課後の予定が潰れるのが嫌だという理由のもと、部活には入らず、帰宅部だった。ただクラスの9割は部活に入っており、入ることが当たり前だったので、建前として「ダンスがやりたい」と周りに言うことで自分の心の平穏を保っていたのだ。
 この時から部活に入らないという選択が周りから”浮いている”と思われないよう回避していたし、めんどくさいことには足を踏み入れないというバリアを張ることで、経験の機会損失をしていた。
 正直、部活に入っていなかったせいで友達はほとんどいなかったし、成人式の時のボッチ感はたまったものじゃなかったが、その時も話しかけてくれた友達には一生足を向けて寝ることはできないだろう。

書いていて悲しくなるが、まだまだ回避してきたことが思い浮かぶので、
いったん今日はここまで。
人生で頑張ったことなんて本当にひとつもないんだろうなと言うことを思い知らされる。

いいなと思ったら応援しよう!