幻覚 -F

4月も半ばになったというのにまだ肌寒く、それなのに桜はとっくに散り始めたというから、なんだか釈然としなかった。側溝に溜まる花びらから目を上げると、住宅街の先に、周りより少しだけ背の高い建物があって、灰色の壁面には太めのゴシック体で「無意味」と書かれている。あれが目的地だった。

外階段はかなり錆びていて、けれど登っていっても少しとも軋むことはなく、手すりの細かな傷などは、古老の額のしわのような貫禄さえ感じさせた。友人はここの8階に住んでいる。なんとなく階段を――エレベーターを探す、ほんの少しの労力を惜しんで――使ってしまったが、8階分を登るころには、もうすっかりへとへとになってしまった。

「はぁ、もう少し、散歩とかするべきかな」

我ながら、自分の体力の無さに呆れつつ、少しだけ息を整えて、インターホンを押す。反応が無い。寝ているのかもしれない、と思った。この時間に来ることは知っているはずだし、何なら指定したのは向こうだったから、さすがに留守ということは無い。電話でもかけようかと思ったとき、

「はい、はーい、すいません」

ドアの向こうから声がした。一瞬、しまった、と思った。部屋を間違えたかな、と表札を確認する。聞こえたその声は、友人のものではなかった。しかし、表札は確かに、友人の苗字に間違いは無かった。

「すいません。壊れてるみたいで、インターホン」

ドアが開いた先に居たのは、見知らぬ少女――まさしく"部屋着"という服装の――だった。歳は10代とも思えるし、20代とも思えた。肩にかかる位の長さの髪は、まるで銀細工のように透き通っている。ぱちくりとした紅い瞳が、こちらをじっと見つめていた。

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