マヤ暦の紋章が意味するのは天の「親」への愛と自分の資質
地上での産みの人との関係が悪ければ悪いほど、天の親とのつながりがとても遠くなったり、切れたように感じられる。
愛されたいのは産みの人ではない。ほんとうは天の「親」だ。わたしたちを産んだ本当の源の存在だ。全幅の信頼と愛でつながっている存在だ。わたしたちが愛されたいのは、産みの人ではなく、天の「親」だ。
マヤ暦のウェイブスペルは、天の「親」への愛し方や接し方が強調されている。全人類、全生物、このマヤ暦すべての紋章の特徴を持っている。そのうえで、より地上で強調される特徴や特性を紋章で表している。
白い犬なら、天の「親」に一途で忠誠心も一筋で、「親」をバカにされたと思うと毘沙門天のごとく激昂する。雷を落とす。「親」から借りている力や才能をエゴや自己顕示欲のために使っている霊能力者にガチギレしたこともある。
なぜかと思っていたら、遊んでばかりで好き勝手して、「親」の力を振り回して、偉そうに威張って、もう自分は大丈夫だなどと尻をかいている怠けた姿に「親」をバカにしているのかと激昂したからだった。
私が人を人と見て愛することもなく、人に尽くしているようでただ喜びを増やそうとしていただけなのは、「親」を喜ばせたい一心だったからだった。
すべて「親」のため。自分の幸せや自分の喜びといったものがとらえにくいくらいには「親」第一で「親」大好きで、だからこそ容赦ない。
自分を大切にすることもまた「親」を大事にすることにつながるのか?と思いはじめた。
「親」への愛がすごすぎることは自分でもよくわかった。
この感覚が「つながりが切れている」感覚というやつだとわかった。そうか。人が産みの人とつながりたがるのは、産みの人に「親」を見出していたからだ。
産みの人とつながればまた「親」と繋がれるのではないかと思えるが、ざんねんながら自ら産みの人から離れているのは自身だし、「親」とのつながりを忘れているのは、それがその人にとって「生きづらい道」に進んでいるからだ。正道からずれているのは地上の人間で宇宙ではない。
しっかりと「天にその生命を合わせる」ことができたら、つながりとはなにか、「親」とはなにかがわかる。天に添うとき、「親」を愛すること、愛されることにつながっていた。
これは産みの親を愛することとは違う。だけどこれが厄介で、産みの人によって本来の「親」とのつながりが切り離されていることがある。
この産みの人との間で作られた障害物になっているものを自分の中から掃除していかなきゃいけない。その掃除もカルマの掃除であったり、自分の生きやすい方向が見つかったりと大きい収穫もある。
生きづらい中で、自分のなかでばらばらになっている情報をセドナメソッドからキーワードを拾ってまとめていくなかで、私は「つながり」にもどる天命(道)を見出した。自分から大きくズレて離れていたんだとよくわかった。
私の生きる道がはっきりしたことで、私が生きると決めてきた道にもどったからだ。それは「親」とつながり直し、つながりを実感して、自分が生きると決めている道をまっすぐに進むことだ。
必ずその道に戻ると決めればその道に戻る標(サイン)が見え始める。必要なのは、気づくことだ。自分を知ることだ。
べつに自分を知ることに苦労する必要はない。でも調べるコツは知っておいたほうが便利だ。こうやって情報を出して自分で探せるように私なりに手がかりを出している。
それに、外で働いている人達には外で働く適性があるので、私とは生き方がぜんぜん違うこともある。それぞれに必ず意味がある。そこにも自分を知る手がかりがある。自分と関係ないところに自分がいることはありえない、と思っている。
私はとにかく生きやすくなる情報がほしくて手繰り寄せた気がする。がむしゃらで立ち止まれなかった。がむしゃらにひたすら探し続けていても食べていける環境があってそれはとても助かった。
ずっと自分のためだと思ってやっていた。でも最初から今までずっと「親」のためだった。「親」とつながりなおして、愛されたかったんだ。人が本当に心から望むつながりはこれだ。だれとつながってもそんなもの誤魔化しに過ぎない。
太陽の紋章は個人の特徴や資質によるところが大きいらしい。個人的にやらなきゃいけない仕事だったり、やろうとしていること。
ウェイブスペルの土台に太陽の紋章が載っている。
ウェイブスペルと太陽の紋章が一致する人は、推測だけれど、神の仕事を代行する、神のしてほしいこと神とともにする、天と神と自分の三位一体でやることがあるとか、まあそういう天地の一致が必要なことがあるかもしれない。
私の場合は、ウェイブスペルは宇宙視点でいうと「親(かみ)」への愛だった。であれば、太陽の紋章は自己愛とも取れる。やらないと自分にも影響があるお仕事、というか。個人的にやると決めてきたノルマかな、と。
それにしても。
産みの人と分けるために便宜的に「親」と記しているんだけれど。
マザーと呼ぶか、源と飛ぶか、グレートセントラルサンと呼ぶか、いやそもそもこの「感覚」をどう言えばいいかわからない。
これは親とつながったっていうより、魂の自分とのズレがなくなった結果、魂と「親」がつながっているので、「親」ー魂の自分ー地上の自分ととんとんとん、と合わさった感覚、なのかもわからない。