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私の愛の解釈|女性性。受容、共感、喜び、平和、安心、傾聴、和合。愛は女性性だと思う。
感情は全てにおいて美しい
自心傾聴につういて。
セドナメソッドで解放しているあれ、おそらく過剰な男性性だ。
女性性を踏みにじり、殴りつけ、悪口雑言を吐き、弱らせるものを解放している。
ほんとうは女性性も男性性も本来はなく和合して統合されているが、いまの人類はそれが分かたれて、一体の中でも外世界でも、女性性が虐げられ、男性性が未だ過剰にある。女性の体や男性の体と、そのなかにある女性性や男性性は別物である。世の中には一体の中に、男性も女性も、人間も人外もあらゆるものが存在する個体もいる。
女性や男性という「肉体」で自分は女性だ、男性だと役作りをして型にはめるのは、「キャラクターごっこ」だ。そういうキャラ設定で遊んでいるんだね。ってこと。
この自分の感情をすべて聞いて解放する、自分の感情として受け入れて解放するのが、女性性こと自己愛であり自心傾聴だった。
姪への嫉妬感情もようやく一歩前進した。
姪の気配を感じると私の中で嫉妬の感情が出てきて、嫉妬する私が嫌だった。姪がどうこうよりも、嫉妬する自分が出てきてしまうのが嫌だった。
嫉妬する自分が醜くて嫌だと思っていた。
しかし、嫉妬や憎悪やすべての感情をよしとして受け入れられるのが女性性こと、愛だ。男性性過剰の場合はこれらの感情をみっともない、恐ろしい、穢らわしい、よろしくない、さっさとなんとかするべきだと切り捨てる。改善しようとする。すぐに改善しろ、すぐに直せ、ただちに解決しろ、それはよくない、悪いものだ、罰が必要だ、裁くべきだ!、早く捨てろ!、そんな者は自分ではない!と否定し、拒否し、いやらしいものを見る目で抑えつけて消滅させようとする。
しかし、どのような感情も自分も美しいのだ。
醜いと感じるその感情が美しいのだ。
醜さをただ受け入れられることが美しいのだ。
感情はすべて美しいのだ。
どのような自分を醜い、見苦しいと嫌っているにせよ、
感情はすべて美しく、感じられること、認められること、気付けることは美しいのだ。反対にその感じているものを、拒み、見下し、否定し、嫌がって切り捨てるほうが恥ずかしく醜いのだ。
それに至るまで、感情を引き寄せては受け入れて、また時自分の方へ引き寄せてはその感情を感じた。感じることは素晴らしい、感情はいずれにせよ美しい。嫉妬する私もまた、そのような感情や表情は美しいものだった。
感情は心を揺さぶってくれる。ただ美しいものはそれほど感情が揺さぶられないが、嫉妬も憎悪もそれがどのように表現されるにせよ、それは美しいと感じられるのだ。