煮詰まるくらいなら、初めから何も書かない。オレが文章を書く目的。
文章を書いているときに、スラスラと進まないとき、とっとと書くのをやめることにしている。新しく記事を書くつもりで、振り出しに戻って最初から書き始める。
オレは、生み出す苦しみに耐えることができない。おかげで、時間をかけて長い文章を書くことや、文章に限らずじっくり何か一つのことを作り上げることに向いていない。
ザザザッと、時間をかけずに頭も空っぽ状態でポンポン自分から放出したものの方が、後から見返してもみても良いことが多い。
単に、飽きっぽいだけなのだが。文章を書いていて煮詰まると、途端に書いている記事自体がどうでも良くなる。もう、書く気がしなくなる。一回リセットしたくなる。ちょっと休んでから続きを書こうという選択さえほとんどしない。それくらい、一筆書きのようにばばばっと仕上げないと、集中力が持たない。飽きちゃう。
この傾向は、年々ひどくなる傾向にある。以前はもっと、時間をかけて物事に取り組めたはずだったんだけども。そういう人って案外多くない?この頃は2時間の映画も一回じゃ見切れない。集中が続かないから、40分に一回休憩を入れるくらいの感じで、見ることになる。
それはそうと、文章の話をしていたのだった。集中力が持たず、煮詰まるとすぐ投げ出すオレは、スラスラーっと書いたものしかこのnoteでも、形に残していないし、途中で煮詰まったら全部削除している。
オレは快便でありたい。うんこも、キレが悪いとなんだかなぁとなる。爽快感がない。オレは文章を爽快感を得るために書いている。そこで、生みの苦しみと闘っている場合ではないのだ。ひたすらうんこがダダ漏れするくらい、ダダ漏れの言葉を編んで文章にしていきたい。煮詰まっている場合ではないのだ。
オレたちは自分がやっていることについて、何のためにやっているのかを忘れることがしばしばある。楽しむために始めたことが、苦しみに変わっていることも多々ある。初心忘れるべからず、とわざわざ言うほどに簡単に初心を忘れる。初心を忘れるということは、当初の目的も完全に忘れている体たらくである。
うんこをするように文章を書く。辻褄も、意味も、文章としての完成度も、そんなものはどうでも良い。とにかく、言葉をバンバン吐き出すだけで案外気持ちが良い。晴々する。
飽きっぽいひとに、本当にオススメだ。集中力がもたないひとも、集中力が持つ範囲でなんでもやってみればいい。5分なら5分でいい。何もしないでダラダラやってるより、作品がくだらない無価値なものだったしても創作は自分に豊かさをもたらしてくれる。
子供って夢中で絵を描くじゃないの。粘土で何か作るじゃないの。あれって純粋な楽しみのためだけにしかやってないよね。自分の楽しみのためだけにやってる。
大人は、子供から学べる。子供をよく見ていると、人生の達人だな、と思う。とにかく楽しんでいるし、楽しむことの工夫がみんな天才的だ。オレもかつてそうだったけど、今は忘れてしまった。忘れたことを思い出すようにして、このnoteを書いている。別に思い出せなくていい。誰が読むかも読まないかもわからない、こんな文章を書いて一体何になる?何にもならない。
それでいい。何にもならないことが好きだ。何にもならないことに時間を費やす。何にもならないことに費やした時間が、人生に彩りを添えていく。何にもならないことが、かけがけがなかったりする。
やり直しが効かない人生。自分の創作にもいちいちやり直しなんかしない。出たところ勝負。いや、勝負ですらない。出たことだしたもんでオッケー。とにかく、出す出す。何も考えまい。
あ〜、金麦飲みてぇなぁ