感情論者と議論しても無意味。正論や客観的分析は、衝突の種でしかない。
相手にとって必要なことは、正論ではなく同意や共感である場合がほとんどである。特に感情論者は、感情と切り分けたところでの論理的な思考や考察を積み上げることができない。
なんとなく、好きか嫌いか、だけしか彼らには物事の判断基準がない。それをこちらが分かっておかないと無益な衝突を繰り返すことになる。
感情論者は、一つの物事にもいろんな面があることを知らないし知ろうともしない。そして、それを教えてあげようとしても聞く耳を持たない。つまり、冷静に客観的な分析は彼らの前に全く意味をなさないのだ。
例えば、好きなアイドルがいたとして、そのアイドルのやる事なすことを全て賞賛して、彼らと衝突する分子には敵意の眼差しを向ける。そうゆうことが往々にしてある。
感情論者とは、冷静に話をしようと思わないこと。正しいと感じることを伝えようとしないこと。彼らには、正論も客観的な話も必要なくただ聞いていて気持ちがいい話しか、入っていかない。
となれば、自分の伝えたいことを彼らにとって、聞いていて気持ちのいい話に変換して伝える必要がある。それは、結構な技術や気づかいを要する。それをさえして、伝えることに意味や価値のあることならば、チャレンジしてみる価値はきっとある。
しかし、そんなものほとんどない。だから、はははそうだね。とか、おっしゃる通りだね、と言っておけば良い。どの道、話が通じないのだから合わせてあげるだけでいい。
人間は変わらない。本音を伝えた先にお互いの関係にポジティブな変化が起こるなら、それは良いことだが、ほとんどそんなこと起こらない。無益な衝突を生んで疲れるくらいなら、取り合わない姿勢を貫くこと。
それは、冷たい対応ではない。むしろ、相手を思うのであればそうした方が良いとさえ思う。衝突はお互いにとってのストレスだ。相手を無意味なストレスにさらさないためにも、同意、共感を見せるだけでいい。
とは言え、自分の中に「いや、そうじゃねーんだよな」と、思うことがあればそれは、noteにでも書けばいい。吐き出すだけで、伝える必要なんてない。吐き出しさえすれば、割とスッキリするんだから。
感情論者ばかりの世の中で、語り合える相手がなかなか見つからない人も少なくないと思う。しかし、それでいい。語ることで生まれるのがストレスであるならばむしろ、口を開かない方が賢明である。
そして、こーゆうことをnoteでウダウダ抜かしていると、自分の似たような人がそれをキャッチしていたりする。そこでコミュニケーションを取る取らないはまた別の話だが、そうやって、自分をオープンにする場所も、適材適所選択をして自分を疲れさせずに生きていきたいものだ。
あ〜、金麦飲みてぇなぁ