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失望の未来をスピード妄想

自分でも信じられないくらいのスピードで怒りの沸点に達させる事柄がある。

だいたいの共通点は自分が責められているように感じるもので
おばあちゃんとの過ごし方はいつになってもイライラする。

イベント時に一緒にいてあげるべきなのはわかっている。
日本にいるのは私だけだ側にいるのはわたしだけだし
お世話になっているし親族なんだから。

でも一緒にいて楽しいと思うことは、悲しいことに減ってしまった。
正直数時間が限界だ。
お泊まりもとにかく苦手でストレスだ。

だからといってそれを我慢すればいけないこともないし
モラル的にはそれが正解なのだろう。

でもそこまで我慢してするべきなのか?
億劫で憂鬱なことをそこまでして進んでするべきなのか?

一緒に住んでいて色々と限界に感じている時期、
転職活動がうまくいっていない、自分にとって大きな別れがあったなどで精神的に参っていたときに、

一緒に年を越さなければならないのか…
それがストレスで嫌すぎて
一緒にいられないのがほぼわかっていたのに直前まで言えなかった。

失望感を与えるのも、それを彼女から感じるのも耐えられなかった。
また、それを聞いた時の海外にいる家族からの静かな避難も感じたくなかった。

わたしの妄想であるに違いないが
ハワイ組からは無言のプレッシャーを常に感じている。

なんだかんだすぐに駆けつけられるのは私しかいないのだ
それは無意識にみんなが共通でもっている認識だろう、と。

わたしが一緒にいるのが当然といった淡い期待をわたしにもっていると感じる。

だから、わたしが個人的な理由でおばあちゃんといることを断った時に
すこし我慢すればできるのに何故そうしない、と責められているように感じる。

これは私が自分で自分にむけている感情なのだろう、
わかっている。

すこし我慢すればできることをしないのはわがままだと
そう思っているのだ。


先日
趣味でしている弓道の所属している道場でセクハラ発言がもとで揉めた。

揉めたというのは少し語弊があるが、
私に向けられた発言が問題になって、発言した側には半年の入場禁止という処分が下った。

正直、こんなこと言わなければよかったと思った。

自分がすこし我慢すれば
忙しい人たちに時間を使わせて、誰かに弓道ができない状況を与えることもなかったのではと。
大ごとにならず波風立たずに済んだのでは、と。


わかっている
これを野放しにしておけば、他に被害者を生んだかもしれない。

何より、
発言を受けた時に感じた恐怖や気持ち悪い感覚
これらは正当な感情で気のせいで片付けていいものでは無い。


だけど
すこしの我慢をわたしがすればすべてがうまくいくはずなのだと
少しの我慢をしないことがわがままなのだと
どこかで感じたこの制御の念が、私の感情を押し殺してまで他人を許すべきだと思わせる。

これが唯一爆発するタイミングは爆発できる相手にだけで、
それが母親だったりするのだ。


わたしが一人で勝手に感じているプレッシャーだ。
誰かにそう思われているというのは、おそらく妄想だろう。

冷静になればわかるのに
この考えが案外根深くて、

今回みたいにイベント事を一緒に過ごすのかといった質問をされただけで
責められている気がして、
じゃあ自分たちで帰国して一緒に祝ってやれよと爆発してしまう。

このプレッシャーが妄想で取り越し苦労なんだとしたら、
爆発するほどそれをひしひしと日頃から感じているこれは何なのだろう。


おばあちゃんからガッカリした態度を受けるのが辛い。
辛いから逆ギレに変わる。

行くとは一言も言っていないのに
クリスマスメニューを生協で頼んだと言われただけで怒りの感情が怒涛のように押し寄せてくる。

変換がものすごいスピードで行われていく。

このままだと失望させる→
でも仕方ないじゃないか、最初から行くなんて言ってないんだから→
それでも我慢すれば行けるってか?じゃあわたしの感情はどうなるのさ→
残念がられたら私のせいだと言われてるみたいじゃないか→
そもそも何で私しか彼女の願いを叶えられる人がいないんだ→
みんなして私ばかりを頼っておかしいだろう→
行きたい行きたくないは私の選択のはずなのに→
もう我慢するのも疲れた→
なぜみんなして私を責めるんだ

相手の言動から要望や意図を勝手に汲み取って、
それを叶えられない、失望させる未来を妄想して
その辛い現実(妄想)を受け入れるのが怖くて
我慢することが辛くて、怒りに達する

失望される責められる それが怖い。

NOを言うのが怖いのか
常に誰かを失望させていると感じているのか
その未来がほぼ起こると妄想しているのか
それがついに現実になってしまうように感じる時に
自分を守るために逆ギレするのか

逆ギレは母親にしか起こらず
他の人には怒りの手前の悲しみに着地する。


よく考えればわかるはず。

誰かを失望させるのではという恐怖を無意識に持っていることを認識して
それは自分が勝手にしている妄想であることを理解する。
また、失望させたところでそれは相手の問題であり私の問題ではない
だから我慢するのは間違っていると認知する。

大抵の場合、決して誰も自分を責めない。

だってすべては自分が勝手に行なっている妄想なのだから。


そうか
この体が震えるほどの怒りは 自分に向けられたものだったんだ。


なぜ我慢する?
我慢するべきでは無い
嫌なら嫌と言っていいんだ

相手を失望させたらなんだ
そもそも失望させたと感じているのも妄想だ

そんなことより自分の感情や気持ちを押し殺す行為は
自分にこの上なく失礼に値する

なぜ我慢する

わたしの感情は真っ当で正当なものだ

誰がなんと言おうとどんな反応をされようと

わたしが感じていることに蓋をする必要もないし
そんな権利は誰にもない


幼少期にきっと我慢したのだろう。
やんちゃな妹を持ったことで、
親をこれ以上怒らせないようにだとか、飛び火を浴びないようにだとか
そういった理由で我慢をし始めて
妹や外の人たちといった比較対象が出てきた時期から
何かが起こる前から自分が失望させる未来を妄想する癖がついてしまったのだろうか。
実際に傷つくような言動を受けたのかもしれない。

怒られることが多かったのかもしれない。
それで慎重になったのかもしれない。

でも
わたしのせいじゃない
わたしのせいじゃないよ

どちみち
このブレインダンプで分かったことは、やはり自分を蔑ろにしている事実だ。

誰かを失望させる

これに対する恐怖が強烈で、根強い。

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