BLっていいな。「みなと商事コインランドリー」の性欲と愛について
BLは読んでいて楽だなと思うことはある。性欲と愛が直結している。性欲=愛なのだ。僕は性欲と愛は全然別のところにあって、結びつくのかどうか未だに分からないのだが、BLは分かりやすく直結してることが多い。
「みなと商事コインランドリー」は、こんなにも可愛らしい絵柄でエロ描写もなく丁寧な話なのに、性欲をかなり出してきている。
性欲を全面に出すコンテンツといえば例えばAVが一番分かりやすいだろう。どう考えても女性の気持ちを完全に無視したストーリーで、話の構成が性欲の都合で振り回されており、話を理解するという点だけに重きをおけば「?」となる作品はかなりある。(もちろん例外もたくさんあるが)
性欲は暴力であり、人の感情の機微とはどう考えても釣り合わない。釣り合わないから、性欲と人の感情どちらも出てくる話が成立するわけがない。そんなことを昔は思っていた。しかし違った。BLに出会ったことで自分のそんな考えが簡単に覆っていった。
「みなと商事コインランドリー」はとても丁寧なストーリー構成だ。しかも分かりやすい。BLに興味がない人も読んでみたら興味をもつだろう。その上で性欲に関することを適度に出してくる。
シンは「突っ込みたい」「性的に好きだ」と湊へ真っ直ぐに性欲を向けていることを伝えている。単純明快、ぶちこむ=愛であるという答えがありありと光っているのだが、この漫画はぶちこむ愛までの時間を“歳の差”という壁を理由に永遠に延長させているのだ。
本当の愛はぶちこむことなのだろうかとか、ぶちこんだからといってそいつを俺のものにできたわけでもないし本物の愛で真のコミュニケーションをしたというわけでもないのは、そんなのとっくの昔からわかっている。それでもなおぶちこみたいのだ。ぶちこむまでの2人のやりとりこそ読者が本当に求めている愛なのだろう。
ぶちこまなくても生まれ続ける愛、ぶちこんだからこそ満たされる愛。
ぶちこめなくて満たされない愛、ぶちこんでも満たされない愛。
性欲はぶちこむことこそがゴールだと思っていたが、BLを読めば読むほどそれは馬鹿げた幻想だと知る。愛のあるセックスがゴールなBL作品も多いが、ただ一瞬の貪婪な煌めきだけをゴールに設定するには人生はあまりにも長すぎると思うのだ。
BLを読んで初めて愛することと性欲が結ばれているということを深く考えるようになった。やはり自分の中では性欲と愛は全く結びつかないのだが、実は脳の宇宙の奥では複雑に絡み合っていることも理解できるようになってきた。「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」を初めて理解できたのがBL作品だったというのは自分でも驚いているが、BLは読めば読むほどとても良い勉強になる。
人に簡単に恋人を作ることや結婚することを勧める人間は、恋愛について深く考えたことないんだと思う。本気で恋愛について深く考えたことあるなら、こんな簡単に人に勧めないし気安く言わない。盆正月の親戚の集まりは結婚が必ず話題に上がるし、その人が異性愛者とは限らないのに「彼氏は?/彼女は?」的な質問をし、人間は恋人を欲しがって当たり前前提で話が勝手に進められ少しでもマジョリティとズレたことを言うと途端に不可解な顔をされる。音楽の世界はいつまで経っても恋愛至上主義だし、こんな世の中なのにその割にはみんな何も考えてないんだなぁって思ったりする。恋愛至上主義の抑圧を蹴散らし瞬間と感情を燃やして生きていくには少々雑音が五月蝿すぎる世の中だが、何度考えてもわからないことや今自分が悩んでいることの答えは、意外なところに転がっているのだ。今じゃ本屋に行かなくてもネットに明日への光が指先一つで手に入る。しかしその光がどんなものなのかを見極め選び抜き、掴み取るのは自分自身の力だ。
「みなと商事コインランドリー」を読んで、改めて「BLっていいな」と思った。
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