こんなぼくが関西の塾講師をやめるまで(中編)
前回は閑話休題ということで、僕の記憶に残ったすばらしい生徒たちを紹介しました。
では、本編に戻ります。
「不正?」「いや・・・」
ぼくのアンケートの結果が発表されたとき、大教室はざわついた。
(え?森?うそやろ?)
(前回「べべ2(関西弁で最下位から二番目のこと)やったやん・・・)
など。はっきり聞こえた。
部長は「不正したんか?」と冗談めかして言ったが、冗談じゃない。
不正は断じてしていなかった。
当時ぼくが勤めていた塾には、4つの部門があった。
中学受験を担当する「碩学会ゼミ」。
高校受験を担当する「修文館ゼミ」。
大学受験を担当する「志学総合予備校」。
科学実験教室「サイエンス・ストラテジー」。
そのうち、修文館ゼミは中学受験部門もあった。
トップ公立高校を目指すクラスだ。
S市に新しく「碩学」ができるにあたって、
80人弱の「修文」の子が移ってきた。
そこで僕は社会と国語の授業を必死にこなしていた。
あとで知ったことだが、「修文」のアンケートは公開されない。
そして、生徒は素直で、ほぼ全ての生徒が「とてもよく分かる」
「とても面白い」にマークをする習慣があるのだ。
ということは、「碩学」に移った彼らも、
同じようにぼくに「5」「2」を多く付けてくれたのだ。
その結果2位になった、というだけだった、のである。
ただ、このS市の校舎の生徒は非常に優秀で、面白い生徒も多く、
塾講師のイロハを教えてくれた専務のおかげで
大きく成長したと思っている。
この4年間は宝である。教室長も経験させていただいた。
意図せぬ異動が…2つ。
その後、とんでもない異動が起こった。
地理の方が本社へ。
歴史のエースは予備校へ。
女性講師が妊娠・退職。
ぼくのあとに入った女性講師が結婚・退職。
データ分析の神ともいえるY先生(ぼくはこの先生からグラフやマクロの作り方のすべてを教わった)だけしか残らなかった。
しょうがなく、ぼくはS市を離れた。
そしていきなり社会科の課長になった。
はじめての彼女
彼女ができた。26歳にして初だ。
ぼくは奥手で、高校生も大学生も、好きな人がいたが
相手に彼氏or好きな人ができると、すぐに身を引いた。
略奪愛?NTR?そこに愛はあるんか?
田舎の青年だったので、何も知らなかった。
何もわからなかった。
その子はバイトではあったが、いつもにこやかだった。
キレイではなかったかもしれない。
可愛くもなかったかもしれない。
でも、ぼくには輝いて映った。
真面目にバイトをしている姿が、キレイに見えた。
物静かな子で、一緒に映画をたくさん見た。
ブラックコーヒーが飲めるようになったのも、
紅茶が飲めるようになったのも、彼女のおかげだ。
でも、ぼくは奥手すぎた。
彼女にいっさい二年間手を出さなかった。
結婚してから、と決めていた。
それが彼女には「自分には魅力がないのかもしれない」と写ったようだ。
つきあって二年後にぼくは大阪城公園で別れを告げられた。
そこから一年以上続いた彼女はいない。
さて。会社の話である。
いるのはY先生とぼく、そして急遽入ってもらった中途採用のF講師、
新卒のA講師、女性講師で「碩学」で中学受験を経験したM講師。
正直、かなり頼りない。
Y先生はそうとう強いが、授業とテキスト作成能力は比例しない。
ただ、この中に救世主が現れた。
一年前に入ったある男が、「碩学」の社会を変えた。
後藤栄一郎(偽名です)。
身長190cm、野球部1番バッター、歴史の名門・同志社大学大学院出身。
専門は明治期産業史と、幕末における「肥前」の研究。
家に岩波全書を備える書斎がある、
このネコを愛する男が、
ぼくを変え、「碩学」を変え、
社会科を強きものにした。
後藤のアンケートはすぐに4をすっ飛ばしていた。
部長はぼくを別部門に異動させる決断をすることになった。
新卒のA講師は退職、F講師は異動。
後藤、Y講師、女性講師、国語科から来たO講師、新卒イケメンのI講師。
メンツは揃いすぎていた。
ぼくのアンケートはすぐに定位置になっていた。
部長は「やっぱ一発屋やな」と笑った。
悔しくて震えが止まらなかった。
個別指導部門「マンツーマン修文館」へ
ぼくは課長職を後藤にゆずり、部長に呼ばれ、
個別指導部門に移ることになった。
10年目の節目で、中学受験から離れた。
個別指導部門はどちらかというとマネジメント中心で、
生徒を見るよりバイトの管理、そして何より「ノルマ」が全てだ。
ノルマが苦手なぼくは必死に働いた。
手書きのチラシを書いて朝5時から配ったこともある。
幸い、アルバイトの4人の大学生はすごくいい子たちだった。
一年目はT教室という校舎で働いた。大きめの校舎である。
しかしここで先輩の女性講師から厳しい叱責を受ける。
「碩学で何やってたんですか?」…授業ですよ。
二年目もT教室という校舎。大きかった。
教室長は阪大数学科卒のエリート。
優しくも厳しい方だったが、ぼくは認められず、
すぐに本部校舎にまわされた。西宮校だ。
西宮校のトップは同期のKだった。今では取締役補佐についているはず。
Kは半年ぼくの仕事ぶりを見て、ある日の帰り道に呟いた。
「森ちゃん、もっとできると思ってたわ。13年何しててん」
(こっちは10年授業ばっかりやってたんや!)
(おどれ、個別2年目の講師に同じこと言うんかよ!!!)
はらわたが煮えくり返っていたが、同期だ。
一浪しており、年齢も近しい。
しかも仕事はメチャクチャできる。
ぼくは何もいいかえせなかった。
ついに教壇から降りる日が来た
その翌年。
ぼくは個別部門のトップが変わったのをきっかけに、
「本社・経営企画室」という、
クレーム処理の部門の机に座ることになった。
その数週間後から異変が起きた。
朝起きられない。
夜寝られない。
風呂に入る気力が出ない。
食事が砂の味がした。
最初の、地獄だった。
次回
「こんなぼくが関西の塾講師をやめるまで」(最終回)に続く