こんなぼくが塾講師になるまで
クイズとMagicの日々
クイズとマジック・ザ・ギャザリングの日々は楽しかった。
ちょうど横田卓馬先生の漫画「全ての人類を破壊する。それは再生できない」の時代、テンペストから始めた。
エラーの「呪われた巻物」を「スリヴァーの女王」「ハルマゲドン」と交換したのもいい想い出だ。
大学の授業もけっこうサボって、広島の店に入り浸った。
同年代も先輩も、後輩もいた。店に入り浸っていたので、
高校生や中学生の後輩もできた。一人暮らしだったので、
そいつらを家に泊めてゲームやMagicをやったことも一回や二回ではない。
麻雀もたくさんした。
彼ら高校生・中学生に勉強も教えることもあった。
「◯◯(当時のあだ名)はわかりやすいわ~」と言われたこともあった。
人生の先輩もできた。
そして、最も大きかったこと。
そこで、ぼくは「この世で一番頭の切れる男」と、「スジの通った男」に
出会ったことだ。
マジック・ザ・ギャザリングには大きく分けて
「スタンダード」「リミテッド」がある。
スタンダードはカードプールから予め選んでデッキを用意し戦うタイプ、
リミテッドはその場で選んだカードで戦うタイプ。
ぼくはスタンダードは得意だったが、その場の思考力がないので
リミテッドはどう攻めてどう守ったら勝てるか全くわからなかった。
Hという男
その男、仮にHとしよう。
ぼくがHに勝ったことは、フリープレイを含めても数回しかないはずだ。
とにかく心理戦がうまかった。
持っているものを持ってないように見せる
気づいていることを気づいていないように見せる
持っていないものを持っているように見せる
大学生だがFランと呼ばれる大学だ。
しかし、バケモノみたいに心理戦が強かった。
漫画『ONE OUTS』の渡久地東亜のようだと当時は思ったものだ。
なお、Hは全国大会を二年連続準優勝というなかなかの記録を持つ。
やらかしたぼくとHの言葉
ぼくはあるとき、「やらかした」。
ブログにドラフトの戦略を書き、それがメチャクチャなものだったのだ。
よくわかってない分際で、わかっているような文を書いた。
店に呼ばれ、滾々と説教を受けた。
それはそうだ、その地域のマジックの実力はそんなものだという
レッテルを貼ってしまったのだ。
Hはぼくより1個年下だが、ぼくをあだ名で呼び、タメ口だった。
ぼくは一浪しているので、学年は一緒だから当然だ。
※あとから聞いたが、HもHなりにどう話をするかなやんでいたようだった。
「◯◯(当時のぼくのあだ名)、目を見て謝りや。信憑性ないで」
Hが言った言葉で最も印象に残っていることだ。
それからぼくはこれまでの人生でたくさん謝罪をしたが、相手の目を見なかったことはない。
Hはぼくにマジック・ザ・ギャザリングのイロハを教えたが、
人生のイロハも教えてくれたのだ。
なお、彼はのちに営業マンとなり、
トップ成績を何度も出して関東地方に家を買い、
奥さんと子供と暮らしている。
就職活動
そして就職。
当時は就職氷河期と呼ばれ、内定が出ない時期だった。
ぼくは最初、マスコミを志望した。アナウンサーではない、
新聞記者になりたかったのだ。
いうなら、池上彰氏になりたかったのだ。
※池上彰氏の政治信条はここでは除き、池上彰氏のような、
世の中の様子をわかりやすく伝える仕事をしたかった
新聞記者とTVの報道部に的を絞ったが、
エントリーシートを出せども出せども通らない。
100社出したところで、諦めてしまった。
精神的にダメになってしまったのだ。
マスコミが駄目なら…
そうだ、予備校講師になろう。
河合塾も経験している。歴史も好きだし政経も大好きだ。
自分の経験も活かせられるはずだ。
当時の同じゼミの同級生(彼は京都新聞社で働いている)が
現役の頃通っていた塾の名前を聞き、
ぼくはそこに内定をいただいた。
当時の人事部長はすごくいい人で、遠方から来ているぼくのために二段階面接を飛ばしてくれた。ふつうは四回面接があるが、ぼくは三回で内定をもらった。
ただし、予備校講師ではなく、中学受験の社会の講師であった。
予備校講師は社会の先生は足りていた。
中学受験のほうは、先生が一人退職したばかりだった。
受験業界は離職率が高い。
でも、内定をもらったからには、蹴れなかった。
高い予備校代を出してくれた親に申し訳が立たない。
こうしてぼくは2002年、塾講師となった。
『ニ月の勝者』の連載開始の16年前。
ぼくは関西中堅塾の社会の講師となった。
次回
「こんなぼくが関西の塾講師をやめるまで」