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【2/20更新】 CRYCHIC再結成で感動できなかったオタクによるAve Mujica7話所感

はじめに

この記事は自分の考えを備忘するためのものです。
考えが既出だったり、「お前……読解力ないね……」と思っても怒らないでください。あっ、物を投げないで。

そもそも自分はMyGO!!!!!とAve Mujicaが大好きですし、ケチをつけたいわけではないです。
ただ……わかっていただきたいんですが、「ん?」ってなったところってなんらかの形で昇華しとかないと、ひょんなことでネガティブな感情に転換しかねないんですよね……

Ave Mujicaはまだ5-6話残っていることでもあります。なんなら4月のライブは2days 通しチケット グッズ付き(5・7・5)を既に掴んでいます。
CRYCHICの参加も発表された中で、ちょっとでも当日の楽しみを損いたくない気持ちです。
「7話で泣けなかったんだよな……」とか思いながら聞く春日影、地獄説。

特に今回、製作陣は明らかに感動させにかかってきているのに自分は感動できないという祖語が生まれてしまっているのもあり、やっぱり8話が始まるまでに自分と公式の解釈を擦り合わせておかないと予後が悪いのでは? という危機感もあります。

あくまで個人の感想なので、何が正しいかを議論するつもりはないです。というか正しさを議論したら公式に勝てる道理はこの世のどこにもありません

オタクが泣きながら7話で感動できなかった自分を弔うための記事です。(読んでいる人がいたら)ご了承ください。

あと、なんか一気に書くの疲れるので一章書きおわるごとに追記していく感じにします。
書き終わる頃には8話終わってそうなので……

1.話の展開について

まずは7話の構成を振り返ります。
まずはAパート。
そよが祥子を校門前で出待ちし、祥子を睦の家へ強制連行。
さすが俺たちのそよ・ザ・デンジャラスだぜ!
「人でなし!」と借りた言葉で彼女を非難するモーティスの言葉は不幸にも祥子の心にクリティカルヒットし、彼女は人間になりたいという気持ちを理解します。

その後、燈の付箋に綴られた言葉で強さを得た祥子は睦の家の前で待ち続け、元CRYCHICのメンバーの助力もあり、睦への思いがモーティスにも届いたことで和解を果たすことができます。

ここまでは祥子と睦の問題なので、ここまで丁寧な導線が敷かれています。Ave Mujicaにおいて睦に崩壊の兆しが見え始めたのが2話。
モーティスが生まれたのが3話。
祥子と決裂したのが4話と、Ave Mujicaというバンドの隆盛というメインラインと並走するサブラインとして、常に存在感を出していました。

2話、3話、4話と立て続けに3話連続でクリフハンガーとして使われるというのは、最早殆ど睦の話なのでは……?と思わされるほどです。

5話と6話では彼女たちの(物理的な)距離が離れ一緒に映るシーンこそ殆どないものの、モーティスが祥子を意識し、睦は祥子への思いからモーティスと衝突するなどの描写が絶えず与えられ続けることで、ここまでの問題は祥子と睦の関係性であり、それは彼女たちが和解することがゴールなのだと視聴者に理解させる構造です。

自分としてもここまではついていけました。
ところが、そこから4人でRiNGに行きCRYCHICをやろう!……となったところで気持ちがついていかなくなります。

あ、やるんだ……という気持ちです。
やるのかな? とは勿論思います。
伏線は十分。メンバーは全員揃っている。
燈が祥子に思いを伝えるのならそれは歌にしかあるまい! という考えは妥当だと思います。

でも何というか、全然脚本上の必要性を感じなかったんですよね。
だって直前までの問題は何度も言うように祥子と睦の個人レベルの問題だったんですよ。
そこに至るまでMyGO!!!!!のメンバー含めみんな頑張ってきたわけですよね。
たまたま協力したメンバーがCRYCHIC出身者が多かっただけで、CRYCHICの問題ではないんです。
これをCRYCHICの問題として捉えさせたいなら、関係もないのに貢献度で上位の聖人ピンクがノイズすぎますよね。

そしてその問題は解決しているんですよ。
そこからCRYCHICをやる流れになるわけですが、ここで言い出したのはみんな大好き1人だけ空気読みの世界に生きているANON TOKYO
せめてCRYCHICのメンバーが自発的に言い出してやる流れでも良かったのでは……そんななし崩し的に、もののついでみたいにやらなくとも……

直前まで睦と祥子の問題が提示され続け、やっとそれが解決したところ。
問題に関わる人間こそは確かに、CRYCHICとの関わりが強いことは否めません。揉めてる2人が所属していたバンドなのでそれは当然です。
ですが、CRYCHICについての言及は、メインラインで走っている問題の描写に圧縮されて数えるほど……自分にとっては前振りが不十分で完全に盛り上がるまではいけませんでした。

勿論CRYCHICへの言及は全くなかったわけではないですし、そもそもメンバーは出ずっぱりです。この描写で十分!という人の方が多い筈です。

ただやっぱり、自分にとっては少し唐突でした。
在りし日のCRYCHICが彼女たち一人一人にとってどういうものだったか。
“今”の彼女たちはどう思っているか。
そよや立希がCRYCHICへの思いをMyGO!!!!!で吹っ切ったあと、振り返ってみたときのCRYCHICの存在感についても気になったところです。
そういう前振りや気持ちの励起が十分だったとは思えない、というのが正直な感想です。

ところで、このアニメのタイトルは何だったでしょうか。
そうですね。『BanG Dream! Ave Mujica』ですね。
何が言いたいかというと、『BanG Dream! CRYCHICではないということです。
つまりここでCRYCHICはメインではない。
メインはあくまでもAve Mujicaです。
メインではないのだから懇切丁寧に前振りしたりするのは寧ろノイズであり尺の圧迫です。
そんなことに尺を割く暇があったら、メインボーカルを登場させて差し上げろと言われてしまうでしょう。
今でさえちょっと言われているのに。

CRYCHICはゴールではないのだから、CRYCHICで絶対に泣かせることを目標に脚本を構成する必要はないということでもあります。
CRYCHICは祥子や睦がこれから前向きに生きていくために必要な、いわば踏み台なのです。

……CRYCHIC終わらせる意味あった?
なんだか、MyGO!!!!!が人間になりたいうたⅡをやるのでも、一旦見えている問題は片付くような気がしてなりません。
春日影についても、あの日逃げ出してしまったものを今度は直視することはCRYCHICの終わりをより感じさせますし、MyGO!!!!!というバンドの存在感を経てAve Mujicaに繋がっていく構成にもなったんじゃないかなと。

とはいえCRYCHICを終わらせること自体が各々にとって必要。これは議論を待たないことです。
しかしそれが今回、このタイミングが適切だったかは疑問です。
祥子自身がCRYCHICへの想いを示したのってAve Mujica1話が最後じゃないですか?
彼女はこのところ睦のことを考えるので精一杯だったのに、いきなり「CRYCHICは終わってしまったんですのね……」と涙ぐまれても、そんなに感情の導線が繋がっているとも思えないし……

CRYCHICを見せつけないと海鈴に繋がらないからダメ? そうですか……

2.人間になりたいうたⅡの演出

続いて、主に演出面のお話になります。
結論から言えば、ちょっと好みではありませんでした。

冒頭で書いたようにケチをつけたいわけではありません。
好みではないだけです。
演出は脚本と比べても格段に、好み以外で語れることってないです。
好評を博したウマ娘の映画でだって、レースシーンの描写が派手でくどいとかで好みじゃない人もいたくらいですし、感じ方は本当に人それぞれで正解などありません
これは演出面で議論を呼んだチェンソーマンだろうとスナックバス江だろうと一貫してそうであるという考えです。

勿論、自分としても「こうだったら自分は好きだったな」という演出はありますし、それはこの記事で書き散らして発散するつもりですが、それが万人に受け入れられるわけありませんよね。素人考えなので尚更です。
そういう考えを持ったうえで、あえて書いているということについては改めてご了承ください。

さて。
まずはどの演出が好みではなかったのかについてですが、これは人間になりたいうたⅡの噛み合わない演奏ですね。
好みではない理由をまず挙げて、その後に「(自分にとっては)どうだったらよかった」のかについて書いていきたいと思います。

好みではない理由① 下手な演奏に気を取られる

そもそも演奏の巧拙って、基本的には巧いほどいいものですよね。
ここでは意図的に拙い演奏にしているわけですが、その背景になにがあろうと演奏が下手であること自体に変わりはありません。
そして下手な演奏って、普通にストレス源なんですよね。

とはいえそんなことは織り込み済みでこの演出を選択しているのは明らか。
実際、受け手側に下手な演奏によるストレスを帳消しにするほどの感情の昂りや、下手な演奏と背後の文脈を即座に結びつけて感動できる感性があれば全く問題にならないものです。

ところが私は演奏が始まったとき……「ん?」ってなりました。
そこから考えて、「……演出か!」と気づきました。

この「演出に違和感を覚え、意図を考える」という工程が、自分にとっては物事を感受する姿勢の真逆なんですよね。
更に前述したように、自分はここまでの過程においてCRYCHICへ向ける感情が高まりきっていません
弱火の感情に冷水をかけるが如く演出(主観)に、私の涙腺は休暇を取ってベガスに行ってしまいました。

繊細すぎるだろ。集中力スペランカーか?

どうだったらよかった① 視聴者感情の誘導が欲しい

「じゃあどうして欲しかったかったんだよ。代案も出さずに人の創作にケチをつける生産性皆無の動くゴミめ。死ね」という声がそろそろ聞こえてくるようなので、続いてどうなっていてほしかったかを書きたいと思います。

ここで、自分が問題に感じていることの中で演出によってどうにかできるものが1つだけあると思っています。
それは「演出に違和感を覚え、意図を考える」工程です。
これは登場人物が視聴者を先回りして反応し、思考の誘導を行うことで解決します。
ここはこう感じるのが正解であるという導線を示してあげるわけですね。

今回の件で具体的に言えば、愛音ちゃんが眉を顰めるような描写があればいいかなと思っています。
愛音ちゃんはCRYCHICの演奏は初めて聞くわけですし、Ave Mujicaのファンでもあることからメンバー全員の実力がとてつもなく優れていることは承知しています。
そこで始まる演奏は当然優れたものを期待すると思います。
しかし披露されるのはお粗末なものなわけですから、彼女のほんのちょっとデリカシーがない性格を鑑みても何かリアクションをしてもおかしくはありません。
愛音ちゃんのリアクションによって、「あ、ここは変な演奏を受け止める部分なんだな」という心の準備が、思考過程を経ることなくできる……という理屈です。

ここまで読んでいただいた人(いたら)にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。
「え? 明らかに同じ意図で挟まれた演出があったよね?」
はい、仰るとおりなんですよね。
…………もうちょっとわかりやすくしてください!!!
(7話のライブシーン見直して気付いた)

そこまでされないといけないなんて流石に甘えがすぎるだろと思われることでしょうが、主観なのであしからず。
ただ、ライブシーンで観客に泣かせてみるとか、視聴者感情の誘導は多少露骨だったとしても演出の存在意義の一つでもあると思うのですがどうでしょうか?
入っている演出を勝手に受け止め損なっているカスの分際で面の皮が厚すぎる? ソッスネ……

好みではない理由② 演出意図が受け入れがたい

もう一つ、そもそもCRYCHICがまともに演奏できないという状況そのものについて思うところがあります。

ここでの演出意図は春日影におけるモノローグでも示されるように、CRYCHICが決して特別なものではなく、もう終わってしまっているものであることを示すものだと思います。

確かにこのお粗末な演奏はCRYCHICの関係の不可逆性を示すに十分です。
翻って、ここで滅茶苦茶上手な演奏ができるようであれば、「祥子ちゃんと睦ちゃんとCRYCHICやりなよ」となってしまいます。

でも自分は、ここの演奏は滅茶苦茶上手なものであって欲しかったんですよね。
お前は何を言っているんだ?」と思われるかもしれません。順を追って説明します。

まず前提として、MyGO!!!!!ってCRYCHICの代替品ではないじゃないですか。
そよが愛音に乗っかった経緯とかを考えれば発端はそうなんですが、今となっては彼女たちにとって、CRYCHICとは全く無関係に大切なものなはずですよね。
そこにおいて、彼女たちにとってMyGO!!!!!とCRYCHICのどちらが大切なのかは答えが出ない問題ですよね。
そもそも答えを出す必要がない問題とも言えます。

ただ……これは本当に個人の感情なので議論にもならないんですが、自分は完全なCRYCHICと比べても彼女たちはMyGO!!!!!を選んでくれると信じているし、実際にそうして欲しかったんですよね。

今回の演奏はかなりお粗末でした。彼女たちの失った時間・関係性は大きく、それを聞くだけでもうCRYCHICは無くなってしまったことがわかります。
そんな不完全な状態のCRYCHICと比較してMyGO!!!!!を選ぶのは、彼女たちが胸に抱く複雑な感情などに全く関係のない当たり前のことですよね。
CRYCHICが完全で、その上でMyGO!!!!!を選ぶからこそ選択に重みが出るような展開を、正直期待していました。

CRYCHICがないから仕方なくMyGO!!!!!を選ぶという意識は、10話を乗り越えたあとになっても、特にそよの内心にはあったのではないのかと思うのです。
それは決して責められることではないし、CRYCHICがMyGO!!!!!と同時に存在するということはこれまでなかったのだから、それについて改めて考える機会も必要もありませんでした。

CRYCHICの一時的な復活というイベントは、祥子の人生における踏み台という以上に、MyGO!!!!!内の元CRYCHICメンバーにとって自分にとってのMyGO!!!!!を考えさせる事ができる、大きなポテンシャルを持つものだったんじゃないでしょうか。
正直言って、ちょっと雑に消化されてしまった気がしてなりません。

この感情をどう伝えればいいのか……わからない人には本当にわからないと思うので難しいのですが。
例えば格闘漫画があったとして、最強を決めるトーナメントに主人公が出場しているとするじゃないですか。
主人公が決勝で闘う相手は因縁のある最強の敵である、という状況において、相手が既に負傷している……みたいなシチュエーションが許容できないんですよね。
主人公の勝利にケチがつくと言うと言葉が強いですが、「じゃあ相手が万全だったら負けてたのかな?」という考えがちらついてしまうんです。

今回のCRYCHICもこれに近くて、確かにCRYCHICの演奏はダメだったんですが、「じゃあCRYCHICが完全な状態だったらそよや立希や燈はCRYCHICを選んでたのかな?」という考えを払拭してはくれないんですよね。
MyGO!!!!!を選んでくれただろうとは思います。でもそれはどこまでいっても、妄想でしかないのですよね。
そしてCRYCHICはもうない以上、その考えを払拭してくれる脚本がないとは断言しないにせよ、受領者側から見える範囲からは取り上げられてしまったと感じてしまいます。

ちょっと演出の話から逸脱して脚本の話になってしまいましたが、思いとしてはそのような形です。
自分で言うのもなんですが、こいつタチが悪いですね。
でもコンテンツ受領者(クソデカ主語)というのは、勝手に期待して自分が求めたものが出てこなかったのをこともあろうに裏切られたと感じ、複雑な感情を抱いてしまうものなのです……

どうだったら良かった② 普通に巧い演奏

長々と書いただけあり、これはもう明確ですね。
CRYCHICの演奏が滅茶苦茶巧いというだけで、「こんなに素晴らしいCRYCHICよりも MyGO!!!!!と共に歩んでいくんだ」という、“選ぶ”という意味を伴う文脈になると思うので、自分としてはそれだけで満足です。

しかも普通に巧い演奏だったら、好みではない理由①も自動的に消えてしまうんですよね。
結局これに着地してしまうという……

はい、長くなりましたが演出面は以上になります。
ちなみに春日影のモノローグについては自分は問題にしていません。
パーフェクトな春日影を聴きたいという意見は尤もと思うものの、マルチメディアに展開するIPである長所を活かして他の場所で聞く機会自体は生まれているのと、モノローグを消すといよいよ祥子の心境なんでいきなりCRYCHICやったのか(CRYCHICをやることで彼女たちは何を得たのか)がわからなくなってしまうので……

一旦ここまで
続きは8話終わってからになりそうです
ここまでで7200字ですよ
読んでる人、いないだろうな……

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