ドイツ海難救助隊ゼーノートディーンストの物語〜その②
戦争は、敵味方に分かれ、お互いに殺し合う残酷なものですが、その戦場の中でも武器を取らず、敵味方関係なく救助に命を賭けた人々がいました。
今回もドイツのゼーノートディーンスト(Seenotdienst:海難救助部隊)の話を。
◆軍民一体となった救援活動の拡大
最前線では旧式化しているドルニエDo18も装備に加え、彼らの活動範囲は広がっていきます。地元の救難協会もほとんどが、ゼーノートディーンストに協力してくれることになりました。
1940年にオランダとフランスを侵攻すると更に多くの救難基地が運用可能となり、7月には正式にドイツ空軍に編入されることになります。
多くの民間人は救難活動には協力的で、1940年から1945年の間にオランダの救命艇は1,100名の船舶の乗組員と航空機搭乗員を救助しました。
さらに1940年の10月には航空機の不時着が多発する水域に海難救助ブイが設置されます。ブイは4人の男性を収容でき、毛布、乾いた衣服、食糧、水、フレアなどが備えられていました。黄色に塗られ視認性の高いこのブイは、対峙する両陣営の不時着水した搭乗員たちを引き寄せました。
敵味方関係なく、人命を救助するために設置したこのブイを、各国の救命艇は定期的に巡回し、発見次第、救助をしましたが、敵側の兵員だった場合は、当然捕虜となりました。
◆救助支援が遅れていた連合国
さて、このドイツの体制に対し、意外なことに、イギリスやアメリカの方が救難活動の組織体制が遅れていたのです。
大戦初期の2年間、イギリスはドイツのような航空救難部隊を組織することはせず、僅か28隻ほどのクラッシュボートなるものが用意されたに過ぎませんでした。
1941年の2月から8月の半年間などは、北海やイギリス海峡に不時着水したイギリスの搭乗員1200名のうち444名が救難艇などで救助されたのですが、そのうち78名はドイツ側のゼーノートディーンストに救助されていたのです。海に落ちて4割近くの生存率で、うち2割近くがドイツに救助されるなんて皮肉なものですね。
バトル・オブ・ブリテンでも、スピットファイアやハリケーンなどのイギリスの戦闘機には救命浮船は搭載されておらず、不時着水した彼らは、低体温症にかかる命の危険の中、救命胴衣のみで味方の救助を待つしかありませんでした。彼らを救いにきてくれる可能性が高いのは皮肉なことに敵国であるドイツ海難救助隊だったのです。
1942年9月に、ようやくイギリスもドイツのゼーノートディーンストの成功している成果を模倣してアメリカ陸軍航空軍と協力して救難活動を始めます。アメリカから来たオブザーバーもドイツのゼーノートディーンストを手本とします。
この混成部隊は終戦までに1万4千名近くの救助活動を行い、その中の8千名は航空機搭乗員であったといわれています。
◆こともあろうか救助隊を攻撃し始めたイギリス!
さて、このようにドイツ海難救助部隊はその組織力を活かして北海を飛び回り、敵味方問わず救難者を救助しつづけます。
しかし、こともあろうかイギリスは、これらの救助にあたっていたHe59などの救難飛行機たちを攻撃、撃墜し始めます。
イギリス航空省は、遭遇した如何なる敵救難機をも撃破すべしという旨の公示1254号を発布したのです。これは枢軸国側のスパイ活動や破壊工作員の本土上陸を恐れたからだとも言われています。
それにしても、なんということを!さすがイギリス、ブリカスの名にふさわしい非道っぷり・・・。
彼らの救難活動は今後どうなっていくのでしょうか?続きます。
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