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”元祖・赤い彗星”メッサーシュミットMe163の真実

 真っ赤なこの機体、ド派手もいいとこですが、乗機のパイロットの不評を買い、塗装した整備兵たちは叱られました。なんでこんなことになったのか?今回はこの赤く小さい飛行機についてのお話を。

世界の傑作機No123「メッサーシュミットMe163」より

◆とんでもない高速ぶり!Me163コメート

 この機体、プロペラもエアインテーク(空気を吸い込む装置)もついていません。そう、レシプロエンジンでもジェット機でもないのです。ドイツが開発した世界初の、そして唯一のロケット迎撃戦闘機になります。
 名前はメッサーシュミットMe163、通称コメート(彗星の意味) 
 1941年10月のテストで、当時の戦闘機の平均最大速度をなんと300km/h以上も上回る最大速度1,011km/hを記録します。音速の壁まで手が届きそうな勢いです!
 あまりの高速性能ぶりに驚いたドイツ航空省は、実用化を見極める前に採用化を決定してしまうほどの熱狂ぶりを見せます。
 開発者は、アレクサンダー・リピッシュ博士。メッサーシュミット社に一時的に在籍していた時の置き土産のようなものですが、その後も実用化のための研究・開発が進められ、ようやく、1944年の5月14日に実戦参加します。ついでに言えば水平尾翼が付いていないので、無尾翼機に分類されます。設計は意外と難しいのです。垂直尾翼までないものは全翼機と言われます。
 部隊は第16実験部隊所属、乗機はヴォルフガング・シュペーテ大尉。指揮官でもある大尉、自らが搭乗した時に塗られたとされています。

◆”赤い彗星”の真実

 Me163Bの初の実戦の出撃が決まった日、それまで自力での飛行はまだ5回しか行っていないこの機体は、真っ赤な塗装にされていました。
 実験中なら分かりますが、いざ本番という時になんで赤く塗られてしまったのか。
 これ、実験部隊の整備兵たちの士気が勝手に盛り上がっちゃって、「そうだ、第一次世界大戦の大エース、リヒトホーフェンにちなんで真っ赤にしよう」となったらしいです。正に赤いコメート=赤い彗星の誕生です。
 リヒトホーフェンは、第一次世界大戦の80機撃墜のエースパイロット。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッド・バロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれたエース中のエース。
 ガンダムに出てくるシャア・アズナブルの「赤い彗星」もここからリスペクトされているとのこと。

バイクのレッドバロンも有名ですよね。

赤い彗星、赤い男爵にロマンを感じる人は多そうです

 ひと昔なら、真っ赤にして敵に恐怖感を与え、ド派手な見栄えで敵味方共に自分の存在を誇示する中世の騎士的な威圧感は効果があったかもしれません。
 しかし時代遅れのド派手な塗装は、シュペーテ大尉の機嫌を大いに損ねます。こんなに目立ったら、燃料が切れて帰還する時に狙われやすいだろっ!というのがその理由。塗装に使った塗料は18kgもあったそうですから、余計な消費にもなります。帰還するなり、直ちに元の塗装に戻すように指示されたとか。

◆敵よりも味方に危険なロケット機Me163B

 さて、このコメートにまつわる、よくある話は、燃料が危険で事故でその液を浴びたパイロットが溶けるという話なんです。松本零士のコミック「ザ・コクピット」でも取り上げられていましたね。
 実際に、その燃料と酸化剤は爆発性と腐食性が極めて強く、搭乗員や整備員は非戦闘時も生命の危険にさらされていました。実験将校のヨーゼフ・ベース中尉は、着陸時の衝撃で意識を失っている間に、燃料が漏れたT液で溶解してしまったとも(;°皿°)

ザ・コクピット第三巻「エルベの蛍火」より
燃料は通称T液とC液と呼ばれ、取扱要注意の猛毒です

◆彗星の実戦と高速機の魅力

  ロケットエンジンの信頼性も低く、空中戦の際にも加速度の影響で、ロケットエンジンが止まりやすかったと言われてます。ジェット戦闘機のメッサーシュミットMe262同様、着陸態勢に入ると滑空状態になるので、敵戦闘機からの格好の好餌となります。
 また、突然の爆発や故障による不時着や墜落が続発しました。着陸が胴体着陸のようなソリで行うため、その際の事故も多かったと言われてます。戦果よりも、事故などでの死傷者の方が多かったというなんともな結果に。
 その実戦での成果はわずか数機程度。滞空時間が7分程度しかないこの迎撃機を避けるためにアメリカ軍の部隊も迂回作戦をとり、防空戦にはほとんど貢献はできませんでした。 

 しかし、こんなに危険な戦闘機であるにもかかわらず搭乗員たちは音速に近い世界最速の高速性能の魅力に取り憑かれてしまったのか、「悪女の魅力」とみなして本機を愛好したといいますからなんともですね。 
 それはアメリカ軍も同様でした。この驚異的な高速度性能に注目したアメリカ軍は、この機体を設計したリピッシュ博士を探し出し、ペーパークリップ作戦(ドイツ人の優秀な科学者をドイツからアメリカに連行した一連の作戦のコード名)で招聘、無尾翼機の開発に参加してもらいます。
 リピッシュ博士は、こうして、アメリカに渡り、コンベア社で無尾翼機の開発に加わります。 この研究の成果は、その後コンベア社のF-106デルタダートB-58ハスラーを開発する基礎となったとも言われています。
 成果は出ずとも、その技術力は戦後の航空機産業に大きく貢献することになるのでした。

無尾翼機は意外と開発が難しいのです

当時の貴重な映像はこちらです。


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