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ドイツ海難救助隊ゼーノートディーンストの物語〜その①

 戦争は、敵味方で殺し合う残酷なものですが、その戦場の中でも武器を取らず、敵味方関係なく救助に命を賭けた人々がいました。
 今回は、『The Luftwaffe Use Notdienst:The First Air Rescue Units』という書籍を中心に、ドイツのゼーノートディーンスト(Seenotdienst:海難救助部隊)の話をしていきたいと思います。全4回の予定です。

救命浮船の装備品の一例

◆冷たい海上に落ちた搭乗員たちの運命

 第二次世界大戦の1940年7月。ドーバー海峡を挟んで向かい合うイギリスとドイツに占領されたフランス。ダンケルクの撤退という史上最大の撤退作戦の後、戦争の舞台はイギリス上空へと移ります。通称”バトル・オブ・ブリテン”です。
 数多くの戦闘機、爆撃機たちが攻撃を受けたり撃墜されますが、中にはヨーロッパ本土にたどり着く前に洋上に不時着する機体も多くなってきます。ドーヴァーから北海の冷たい海水は、20分から90分で意識を失うほどの低体温症をもたらします。救助は一刻も早く行われなければなりません。パイロットら搭乗員たちは無事に着水できたとしても、冷たい水の中では生存は難しいのです。

 ドイツ空軍司令部は、落下傘で脱出するよりも、なるべく不時着水することを勧めます。Bf110や爆撃機には、搭乗員が長時間海水に浸らないようにゴムボートが装着されていたのです。
 この洋上に着水した搭乗員たちを敵味方関係なく救助に当たったのが、世界初ともいえる海難救助部隊、ゼーノートディーンストでした。

ゴムボート装備のBf110 赤い丸部分に追加装備しています。

◆設立は民間会社の協力の下に1935年に設立

 この海難救助部隊の設立は1935年にさかのぼります。ドイツ北部の都市キールの港に駐在していたドイツ空軍の補給将校のコンラート・ゴルツ中佐は、北海とバルト海での活動を意図した航空救難組織の編成を命じられます。
 地元の民間の救難艇協会や海難救助会との協力を取り付け、民間登録された航空機を使用し、軍と民間の双方からの人員で構成された混合組織を設立します。
 やがて、戦争の可能性が増してきた1939年には、大規模な救助演習を行います。これに伴いドイツ空軍も専用の航空救難水上機を調達することを決定、ハインケルHe59を採用します。
 機体は目立つように白塗装を全面に施し、赤十字のマークを付け民間登録番号を付けます。
 このHe59は14機が調達され、救急機器、電熱寝袋、人口呼吸装置、水面に降りるための伸縮梯子付き床下ハッチ、ホイスト、信号機器、全ての機器を収納する保管庫を装備されました。そして多種多様な小型水上艇も航空救難部隊の指揮下に集められることになります。

白い機体に赤十字マークをつけたHe59水上機

◆最初の本格的な救難活動は、なんと敵国のイギリス搭乗員たち

 さて、最初の大規模で本格的な航空救難活動は1939年に12月18日に行われます。それはなんと敵国の搭乗員たちでした。
 爆撃任務を受けたイギリスのビッカース・ウェリトン中型爆撃機24機が、帰還の途中で士気盛んなBf109、Bf110の攻撃に遭い、その編隊の半数以上が北海洋上で撃墜されます。
 ドイツのゼーノートディーンスト所属の救命艇がHe 59と協力して20名ほどのイギリス空軍搭乗員を凍るような海から救助することになりました。

 1940年にデンマークとノルウェーがドイツの侵攻を受けると、任務する沿岸が拡大し、ゼーノートディーンストの活動範囲と拠点は拡大していくことになります。

ビッカース・ウェリトン中型爆撃機


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