「(K)not」第二話
慶珍楼は、皆でよく食事をした中華街の老舗店だ。母たちの事故が起こる前、まだひとつ屋根の下に暮らす以前は、親戚で集まると食事に行った。
一歩店内に入ると、真夏であることを一瞬で忘れさせてくれる涼しさで、抑えた照明が目にも優しい。艶のある木目に金の細工が施された豪奢なエレベーターで三階へ上がり、臙脂色の絨毯が伸びる廊下の突き当たりの部屋へ案内された。金色の丸いノブを回してドアを開けると、昔ながらの回転台が付いた大きな円卓のある落ち着いた個室だった。隅のスツールに荷物を置き、円卓を囲む背もたれの高い椅子に腰掛けた。
「どっこいしょっと。」
思わず漏れた晴三郎の溜息に続けて、正一郎や和二郎が「あー」だの「うー」だの呻き声を上げた。続けて彼らは、行儀良く卓に乗った熱々のお絞りで顔面を拭き出した。
「二人とも絶対やると思った。ソレをやったらおしま・・・」
言いかけた晴三郎が隣の有馬を見ると、同じようにガッツリ顔を拭いているのに気付き言葉を飲み込んだ。
大人たちは冷えたビールに喉を鳴らした。有馬は学生の頃から(親に隠れて)強い酒を飲んでも平然としていたが、皮肉にも、今日は昼食後仕事に戻らなくてはならず、アルコールフリーのビールを飲んでいる。ノンアルコールでありながら麦酒であると主張する、切ない大人の価値観が分からない未成年たちは冷たいソフトドリンクを、暑い日でも体を冷やしたくない女子のような晴三郎と襟人は温かい普洱茶をポットで注文した。
円卓の上の美味い広東料理が、テーブルを何周したのか分からなくなるほど回ると、大皿の上の料理は殆ど残っていなかった。
「失礼いたします。」
控えめなノックと共に白と黒の制服にひっつめ髪の店員がデザートを運んできた。丸々ひと玉の大きな西瓜の外表皮に繊細な孔雀の彫刻が施されている。宝石の様な数種類のフルーツと水晶の様に艶やかな杏仁豆腐、真珠の様なタピオカが、くり抜かれた西瓜に満たされた甘露の中を泳いでいた。
瞬が感嘆の声をあげて、あっという間にインスタグラムにアップする。店員は西瓜の中身をあっという間に小椀に取り分けると、一礼して退室した。
「昔、フルーツポンチで酔っ払った奴がいたなあ。」
思いついたように、和二郎が蓮華を咥えながら呟いた。一人おかしそうに肩を振るわせている彼の思い出し笑いなどわかる訳もなく、
「いやこれ、杏仁豆腐だよね?」
と、ボケたのかツッコんだのか分からない晴三郎を無視して和二郎は続けた。
「今日バスん中で寝ちゃってさ、昔の夢見ちゃって・・・」
「あ!夢と言えばさ!」
唐突に、今度は晴三郎が最近自分がよく見る夢について語り始めた。すると理紀が杏仁豆腐を頬張りながら、
「えっ、見る見る、俺もその夢。」
と、身を乗り出して答えた。
その言葉に連鎖するように皆が同じ夢を見たと言い出した。驚いて、話を振った本人の晴三郎は絶句してしまい、円卓は何とも言えない空気に包まれた。
「なあ、お前は?」
突然、理紀に矛先を向けられて動揺する爽に皆の視線が集中する。
「何で、俺に、聞くの・・・?」
瞬きを繰り返す爽の顔色はみるみる曇り、視線から逃げるように下を向く。
「何でって、お前毎日寝てばっかいるんだから、夢なんていっぱい見るだろ。」
「知らない。覚えてない。」
明らかに動揺した爽は、蚊の鳴くような声で否定すると席を立ち、小走りに個室を出て行ってしまった。
「爽ちゃん?」
爽の膝の上から滑り落ちた白いナフキンを拾って、追いかけようとする晴三郎を制して、
「晴さん、いいよ放っといて。」
理紀は吐き捨てるようにそう言うと、手の付けられていない爽の小椀を取り上げ杏仁豆腐を口へ流し込んだ。
「ご、ごめんね、僕がこんな話はじめたせいで。」
「あなたは何も悪くないでしょう。」
そう言った襟人の声にいつもの穏やかな響きはなく、幾分苛立ったような空気を孕んでいた。
「お前ら、もう座れ。」
正一郎は一喝して、晴三郎に目配せする。
「でも、皆で同じ夢を見てるなんて、スゴい偶然。こんなことあるんだね〜。」
場を取り繕うように笑いながら席を立とうとする晴三郎を、襟人が止めた。
「先に会計済ませて下に降りてて。僕が連れ戻して来るから。」
その言葉通り、会計の後一階の店舗でお土産品を物色している間に「お待たせ」と襟人が戻って来た。傍の爽は伸びた前髪に隠れて誰とも目を合わせようとしない。その様子を一瞥した理紀が店外へ歩き出すと誰からともなくその後に続いた。
中華街は迷路だ。訪問者は皆浮き足立ち、どこを歩いているのかわからなくなるような感覚に襲われる。昼食時を過ぎて一層人口密度が増した繁華街で、泣き出しそうなまま俯いていたら、あっという間に迷子になるだろう。青ざめた顔で硬く唇を結んでいる爽の傍を離れないように、そっと日傘に入れてやった。
午後の日差しはまだまだ厳しく蒸し暑い。やがて生温い風に微かに潮のにおいがすると海沿いの公園が見えてきた。
正一郎らの父、つまり有馬たちの祖父である氷川光太郎は、旧日本郵船氷川丸の客室乗務員だった。洒落者で歌やダンスをこなし、横浜とシアトルを行き来する外国人の案内をするため英語も堪能だったと聞いている。船を降りた光太郎の晩年は、趣味の8ミリ映画を撮って暮らしたそうだ。そのフィルムに度々登場する若い頃の祖母は、小柄ではにかみ屋の、永遠の少女のような人だった。
海を見て船を見て、ただぼんやりと、祖父と祖母や母たちが生きていた頃に思いを馳せる。
正一郎と和二郎、そして有馬は喫煙者なので専用ブースのある方へ歩いて行った。理紀と瞬は自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲みながら談笑している。襟人と晴三郎が一緒にバラ園をぶらぶら歩いているのが見える。あの二人は多分、気が合うんだな。そんなことを思いながら潮風に当たっていると、隣にいた筈の爽の姿がいつの間にか見えない。
辺りを見回すと自動販売機からだいぶ離れた日陰のベンチに彼を見つけた。深くもたれて首を折り微動だにしない。近付いて行くと、爽の半身が人形の様にゆっくりと右に傾き横たわった。そのまま動かなくなってしまった彼の肩に触れようとしたその時、突然背後から怒声が響いた。
「お前、起きろ!こんなところでみっともない!」
理紀だった。肩を揺さぶられて、やっと爽は薄目を開けた。ゆっくりと半身を起こして長い前髪を鬱陶しそうに頭を揺する。理紀はぺットボトルを差し出して飲むように促したが、爽は眉間に深い皺を寄せて首を横に振るだけだった。
沈黙するベンチの前を、大きくて美しい毛並みのアフガンハウンドが優雅に通り過ぎる。動物好きの爽が山手に住むセレブ犬の散歩に気を引かれた隙に、理紀が冷えたペットボトルを眉間に押しつける。
「やめろよ。」
嫌がって顔を背ける弟に、理紀は尚も続けた。
「水を飲め!お前は水分を取らなさすぎるんだ、だからそうやってすぐバテる!」
大きな声に、周りの人が振り返る。
「はずかしいだろ。」
微かな声は理紀に届いていなかった。
「四の五の言わず、飲め!南アルプスの恵みを受けろ!」
観念したのか面倒臭いのか、急に爽は理紀の手からペットボトルを掴み取ると、グイッと一口飲んで突き返した。しかし、その投げやりな態度に更にムカついた理紀は突き返されたボトルを強引に押し戻す。
爽は深く息を吐いてから一気に残りの水を喉に流し込み、空のペットボトルを理紀に投げ返した。自分の腕に当たって落ちた虚しい音に、幾分青ざめて理紀は無言で立ち去った。
間を取り持つ暇もなく、二人の険悪な雰囲気は決定的だった。