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「(K)not」第三十二話
午後の講義がオンラインに変更になったので、自室で受講していた襟人は、突然の轟音にPCが落ちて、一人溜息を吐いた。
全くこの辺りは雷が落ち過ぎる。家族が多人数だからか、ブレーカーが落ちることもしばしばある。ゲームを趣味とする理紀や瞬が、プレイ中に何度もこの世の終わりの様な悲鳴を上げているのを知っている。後日、録画した講義を再受講すればいいかと早々に諦めた襟人は、慣れた足取りで部屋を出て、壁に手を這わせながら階下へ降りていった。
つま先の感覚が一階の床を感じたその時、再び鋭く空が光り轟音が鳴り響いた。その一瞬の閃光の中に大きな黒い塊が浮かび上がったのを目撃した襟人は、驚きのあまり声も上げられず、その場に固まってしまった。
玄関の硝子ブロックと吹き抜けの天窓から僅かに差し込む灯りで、ぼんやり浮かび上がった大きな黒い塊は、ずるずると不気味な音を引き摺りながら、ゆっくりとこちらに向かって来た。襟人の心拍数は爆上がり、冷たくなった指先が微かに震える。
『・・・ロ・・・シテ・・・』
その黒い巨躯から滴る得体の知れない液体は、ボトボトと音を立てて床を濡らし、地を這う様にくぐもった声で呻き声を上げている。
『・・・ロ・・・・・・クレ・・・』
突然、身に降りかかった戦慄の事態に、襟人はいつもの冷静さを欠いて叫び出してしまった。
(ロ、シテ、クレ・・・?殺してくれ!?)
襟人の金切り声に怯んだのか、黒い塊は立ち止まり突然方向転換すると、そのまま廊下の壁の中に消えて行ってしまった。危機を脱した襟人はその場に座り込んでしまい、尋常でない動悸を正常に戻そうと深呼吸を繰り返した。
(何だったんだ、一体)
心臓の音が落ち着いてくると、今度は背後から気配を感じて振り向くと、顔の下から懐中電灯を照らした瞬が立っていた。
「居たのか、瞬。」
先に受けた衝撃のせいで懐中電灯エフェクトなど屁でも無かった襟人は、逆に知った顔があることにホッと息を吐き出した。
「チョット、えりりん静かにしてくれる?爽っち起きちゃうじゃん。」
と釘を刺し、そのまま奥の和室に戻ろうとする瞬の脚に縋り、襟人は必死に今起きた出来事を訴えた。
「殺してくれ、殺してくれって・・・」
興味深げに耳を傾けていた瞬は、急に冷めたように「それ、多分、アレ」と懐中電灯で襟人の背後を照らした。
「風呂沸かしてくれ。」
バスタオルを被った半裸の正一郎が、脱衣所から、まるで壁から抜け出てきたかの様に現れた。
「今停電中だから無理だよ〜。」
瞬の返答に絶望した正一郎は、盛大なくしゃみをして悪態を吐く。その巨躯なる背中を丸めて闇に消えていく父親に、かつてこれほどの殺意を抱いたことはあっただろうか。襟人は無言で震える拳を握りしめた。
あ、あったあった。ついこの前感じたっけ、この感情。皮肉にもこの茶番のせいで彼は思い出したのだ。晴三郎への父の態度を改めるように訴えたことで、決裂したんだっけ。そしてあれ以来、父は家へ帰らず顔も合わせていなかった。
(やっと、話ができる。)
襟人は慣れてきた眼を見開いて立ち上がった。もう壁伝いに歩かなくても空間を把握出来る。リビングのドアを開け、いざ父との決戦に挑まんと暗闇の中へ進んで行った。すると、L字に配置されたソファに囲まれたローテーブルにキャンプ用のランタンが置かれて、まるで光に群がる虫の様に皆が集まっていた。
瞬、理紀、晴三郎と正一郎。
エアコンが停まってしまった蒸し暑さと、人の密集した空間はそれなりに不快指数が高かったが、晴三郎と正一郎の周りは特に高い数値を弾き出している。暗闇にランタンを囲み無言のままという現状に耐えられなくなった理紀は、現れた襟人に助けを求めてきた。襟人は晴三郎と正一郎の間に割って入り、そこに腰を下ろす。
「勇気あるなあ。」
理紀は感嘆の吐息を漏らし、瞬はスマホを弄りながら、
「有ちゃん、帰るの面倒だから会社に一泊するって、おとーさん。」
と報告した。
「じゃ、お夕飯、有くんの分は要らないね。ちゃんと報告入れてくれて助かるなあ!」
冷ややかな笑みを浮かべた晴三郎に、正一郎は
「お前の怒りの原因はそこなのか?」
と、憤慨した。しかしその姿は、先程と変わらずバスタオルを腰に巻き、肩からもタオルを下げたままの至極残念なサウナースタイルであり、家長としての凄みも威厳もそこには無かった。
「食卓を預かる身としては、大事なことだよね。」
「和二郎は?あいつはどうなんだ、いっつも午前様じゃねえか。」
「わっくんの勤務先は、台風で電車が止まるからって早く返してくれる様な企業じゃないでしょ。」
「今時珍しいブラックすれすれのダークグレー企業ですなぁ。」
理紀が茶化すように言うと、晴三郎は更にヒートアップして続けた。暗闇でよく見えないが、恐らくダークサイドに堕ちかけている。
「それに、わっくんはいつも外食じゃないか。誰かみたいに偏食家じゃないし晩酌もしないし。」
「俺が手がかかるみたいな言い方するじゃねえか。」
「実際手が掛かるんだよ。いつまでノーパンで居るつもりなんだ。」
「どうせ自分のパンツが何処にあるかも知らないんだろ。」
「初老のくせに。」
そう言うと、晴三郎はそっぽを向いてしまい、襟人はドヤ顔で正一郎を見つめてきた。レスバの勝敗は明らかだった。
(最後の要るか!?)
正一郎は、ショックで返す言葉が見付からず、腕を組んだまま、ただ黙ってナーバスな股間に堪えるしか無かった。
いくら気まずくても、せめてメールぐらい返せば良かった。晴三郎を待たせ過ぎたことを正一郎は悔やんだ。しかし、彼とてただ手ぶらで帰宅した訳ではない。聖名の治療を打ち切ると告げたのも、決して諦めた訳ではなかったからだ。
「浴衣を」
正一郎は慎重に言葉を選択していた。頑なな晴三郎の心を解し、計画を実行するには何を相手に伝えれば良いか。
「用意しておいてくれ、晴三郎。決行は祭りの夜だ。」
「ゆかた・・・」
と、反復しながら呆けたように固まっている晴三郎を気遣って、襟人は直ぐに正一郎に噛み付く。
「また!だから解るように言えって。」
「た・・・卵焼き。」
「は?」
襟人は、傍の晴三郎が聞き取れぬほどの早口で何かを呟いていることに気付くと、その目が尋常でないことに慄いた。
((卵焼き、エントロピーが大きな食べ物。常に小から大へ向かって進む物理学的法則を脳の意識現象に適用。意識は脳のエントロピー増大に伴い発生する副作用的現象。entropy.乱雑さ、無秩序の度合い。ムチツジョ・・・。無秩序。お祭り。目覚めざるを得ない状況。卵はニューロン、脳神経細胞。脳のVMマトリックス細胞を発火!意識の発生!大脳新皮質でビッグバン!))
「ビッグ・バン!!」
突然、晴三郎は叫んだ。どの様にしてその解に辿り着いたか不明だが、とにかく彼の目は晴れやかに輝いていた。ただ無言で頷き悦に入る正一郎を、襟人と理紀と瞬は困惑の表情で見守った。
その後、鼻息を荒くした理紀から「遠隔同衾」についての詳細説明を求められた瞬は、彼を伴って渋々和室へ退場し、電気が復旧した後、襟人は風呂を沸かしに浴室に向かった。そして、濡れた靴下で歩いたであろう、玄関から浴室へと続く足跡や水浸しの廊下、脱衣所に脱ぎ捨てられたずぶ濡れのスーツ等、そこらじゅうに残された正一郎の痕跡を発見し、襟人は再び芽生えた殺意に奥歯を噛み締めた。
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