「(K)not」第二十二話
食洗機の稼働も終わり、一通りの家事が片付いた晴三郎は腰に巻いたエプロンを外し、キッチンスツールに腰掛けぼんやりと時計を見上げた。
午後11時を過ぎている。子供たちは二階の自室に戻り、少し前に帰宅した和二郎が風呂に入って行ったのでテレビも消した。リビングはシンとして牛蛙の声だけが聞こえている。
晴三郎は家長の帰りを待っていた。何としても正一郎と話をつけるつもりだ。
事の発端は、聖名の変化を正一郎が揉み消そうとしたことだった。昨日、晴三郎は聖名に起きた「兆候」について理紀に聞き、そして正一郎に詳細を尋ねた。しかし正一郎には、思惑に反して「期待するな」と素気無く交わされ、憤った晴三郎は正一郎と激しい口論になった。一夜明けても溜飲の下がらない晴三郎は、今日単身沖崎を訪ね、詳細を鼻息荒く問い糺してきたのだった。
しかし沖崎も思惑に反して、嬉々として彼を迎え入れ、延々と講釈を垂れるマッドドクターと対峙することになるとは思っても見なかった。晴三郎は些か辟易して、とうに冷めた湯呑みの中の粗茶を持て余していた。
「聖名さんの場合、クラインレビン症候群やナルコレプシーと違い、睡眠発作の分類では無いと考えられます。むしろ癲癇の発作に近い、脳細胞のネットワークの異常に原因があると私は考えていました。昨日のような脳波の変動は、彼の脳に何か刺激があったものと推測されがちなのですが。まあ最も、立場的見解では意識の源はニューロンであると言うべきところなのですが、私はもっと別の視点からもアプローチしたいと考えていて・・・氷川さん?」
「はい?」
半ば真っ白になっていた晴三郎は自分の声で我に返った。沖崎の個室で、二人向かい合って座っている。不意に沖崎はこんなことを尋ねた。
「氷川さんは、聖名さんは今どこにいるとお考えですか。」
何故こんな質問をするのか、理由が分からない晴三郎は目を瞬かせて思うまま答えるしかなかった。
「そこに。その、病室。ベッドの上に。」
これまで何百回と通ってきた病室である。それこそ、雨の日も雪の日も。其処に聖名がいるから、とにかく少しでも顔を見たかったからだ。
「ではなぜ、彼は目覚めないのでしょう。」
「それは・・・意識が・・・戻らないからでしょうか。」
初めのうちはとにかく沢山話し掛けた。しかしその瞼が開くことは無く、ただ時間だけが無常に流れていった。
事故当時は誰一人、聖名の入院がこんなに長引くと思っていなかった。聖名の体況は、傷も癒え、自呼吸も出来て、他臓器も正常に生命維持活動をしていて、本当にただ『目覚めない』だけだと言う。先進医療を以ってしても施す手段が無いのだ。どこにも治療すべき患部が無いのだから。
だからこそ、何故目覚めないのか、などと何故意地の悪い質問をするのか、その理由の方こそ分からなかった。そんな晴三郎の顔色を察してか、手にした
湯呑みを机に戻し、姿勢を正した沖崎は改まって尋ねた。
「それでは質問を変えましょう。聖名さんの意識は今何処にあるとお考えですか?」
意識の在処?
昏睡と覚醒を行き来する時、意識の在処は異なるのだろうか。そもそも意識は電気信号で、発生を繰り返すものなのではないのか?
外部からの刺激、例えば目覚まし時計の様に大きな音を立てたり、肩を揺り動かし直接体に振動を与えて覚醒を促したりすれば、意識は発生すると思っていた。しかし今、聖名の脳は意識を発生させることが出来無い。晴三郎は腑に落ちず唇を真一文字に結んで考え込んでしまった。
「私は、正直わかりません・・・。意識が無くても聖名は確かに此処に存在していますし。」
「それは身体が此処に在るからではありませんか?」
晴三郎が言葉の意味が理解できないでいると、沖崎は満を辞してと言った面持ちで、彼にしては聞き手を気遣うように幾分ゆっくりと解説を始めた。
「我々は日常的に『意識が無い』『意識を失う』『意識が戻らない』などと表現していますね。まるで意識という物がここに存在していたかの様に。それは意識は脳に在ると思い込んでいるからです。」
確かに、今ベッドに体を横たえていなければ、聖名は「此処には居ない」ということになる。晴三郎は頭を抱えた。
「意識の在処が何処であれ、『体が無い』とか『体を失う』『体が戻らない』とは言いませんね。何故でしょう?」
「から、からだ、は、目に見えるから?ですか?」
「そうですね。肉体が生きているからですね。肉体を見たり触ったりすることで、貴方の脳が『聖名さんは存在している』と認識できるから。と言うことは、私たちが今いるここは肉体側の世界だということです。」
「肉体側・・・?」
「では、聖名さんに今、意識が無いのはどうしてでしょう。この肉体側の世界で聖名さんの生命活動は続いているにも関わらず。」
最初の問題に戻った。それが解らないからこそ、聖名の様な昏睡状態の患者の意識障害治療に打つ手が無いのだ。沖崎は、何も言えず膝の上の拳を握り締めている晴三郎に構わず、深く椅子にもたれてドヤ顔で続ける。
「肉体と意識は存在している世界が違うのであって、どちらも現実ですが、そもそも交わることも重なることもありません。意識がある世界に肉体は存在しないし、肉体のある世界には意識は存在しないのだから。」
「存在している世界が違う?」
危うく置いていかれるところだった。それでも何とか理解しようと、晴三郎は必死に話の糸口を掴み追い縋る。
「研究者の大半が、意識を作り出す神経回路の特定に躍起になっている。未だに意識は自らが作り出すものと信じてね。だから未だにサルの脳に電極を刺すみたいな研究をやってる。正に自意識過剰で野蛮な行為だ。」
医師という立場にありながら、パーキンソン病や認知症、多発性硬化症など様々な難病に苦しむ人々の救済のため日々奮闘する研究者たちに唾を吐く様な沖崎の言い草(とドヤ顔)に、晴三郎は少々不快感を覚えた。
「それじゃ先生は、意識とは何なのか知っていらっしゃるのですか?」
眉間のシワを深くして、晴三郎は探るように尋ねた。それは些か挑発的に見えたかもしれない。しかし反ってその態度は沖崎を喜ばせる結果となった様だった。彼は瞳を輝かせ、幾分興奮気味に話し始めた。
「我々は先ず、意識と魂を明確に分けて考えなくてはなりません。時に氷川さん。お仕事は洋裁家とお聞きしました。」
急に話を振られた晴三郎は、口ごもって下を向いた。
「そんな大したもんじゃ無いです。衣装製作会社の下請けの、針子です。」
「日常的に糸を使っておられるなら、糸が抜けないように最初にするアレ、何でしたっけ?裁縫の授業で初めに練習するアレ・・・こう、指先に糸を巻き付けて、親指で捩って糸を引く。」
沖崎は言いながら目を閉じて、長い指をクルクルと回して何かを表現している。
「玉留めですか?」
「そう、タマドメ!玉留めしないとどうなるでしょう。」
「糸が布をすり抜けますが・・・。」
沖崎は満足そうに頷き、片手を握り拳を作り、
「玉止めの玉は魂。」
と言った。
「魂は糸を捩ってできた結び目です。結び目が無いと、縫合出来ない。」
「何と何を、その、縫い合わせるんですか?」
「時間や空間といった概念が当てはまらない魂と、時間と空間に支配された物質であるところの肉体は溶け合ったり混じり合ったりしない。言ってみればバラバラになってもおかしくない。この世界に生きていると言うことは、実はそれぐらい気薄な状態なのです。糸は比喩的表現で、私はこれを縁と呼んでいます。」
「えんって、血縁とか・・・あっ縁結びとかの?」
沖崎は宙を見つめ、そこに指で「血」という文字を書いた。
「血縁は有性生殖の結果です。そこに生み出される新たな個体の意思は存在しません。血の縁、肉の親、全くその通りです。では縁結びの縁、『これも何かの縁ですね』の縁とは何でしょう。」
晴三郎は当てはまる言葉が思い付かず、考え込んでしまった。沖崎は、俯いたまま動かない彼を待つ気はサラサラ無く、
「時間です。」
と、あっさり解答を口にした。
「じかん・・・。」
呆けて繰り返す晴三郎を尻目に、沖崎は更に話を進める。
「我々が生きているこの物質の世界には時間が流れています。だから劣化するし、壊れるし、死ぬ。当然縁にも時間が影響します。たとえ同じ時間を生きていなくても、時を超えて結ばれる縁もある。しかし魂に時間は干渉できない。そもそも時という概念が無い。」
晴三郎は何の話をしているのかだんだん分からなくなってきた。先ず時が無い世界の想像がつかない。「時が止まった世界」などはフィクションの中にはよくあるものだが、時という概念があってこその「止める」である。また、縁結びの神様などと呼ばれる神社は全国に存在するが、恋愛に限るニュアンスがある。いくら沖崎の会話が突拍子無くても、今は聖名の意識を戻す方法について話していたはずだ。
「そ、そうだ、魂。タマシイとイシを明確に分けることが大切だって。」
晴三郎が、沖崎が言っていたことを苦し紛れに叫ぶと、沖崎は嬉しそうにニヤリと笑みを浮かべた。
「魂と肉体を繋げる何か、それが共物質です。さながら針、とでも表現しましょうか。」
晴三郎は、布状の魂と体を針と糸で縫い合わせていくイメージを思い浮かべ、「ちょっと痛そうだな。」と思った。