「(K)not」第十八話
坂、坂、坂。摺鉢状の街は登り坂ばかりだ。
坂を上り大通りに出ても、途中からまた細い坂に分岐する。その三角州に建つビルの一階テナントには、テラス席のあるカフェが入っていた。大通り沿いや商業施設内にある店舗とは異なり、天井を吹き抜けにして開放感を持たせ、奥に艶やかな黒木のカウンターを設置している。そのたった5席のスペシャルシートでは、希少な珈琲豆の販売や、アンバサダーが淹れてくれる極上の一杯を味わえる趣向だ。更にこの店舗では夕方17時以降、オリジナルのアルコールメニューも出すという。マチヤチノと初めて会った元町のカフェのアップグレード支店である。
カフェと言うよりバールと呼ぶ方がしっくり来る、そんな空間の八割を占める女性客は、突然現れた緑頭の子供を明らかに歓迎していなかった。しかし恐るべき速さで対象を品定めして、彼女らはそっと脚を組んだり姿勢を直したり、それとなく前髪や目元や口元をチェックし始めた。若くて可愛い男子のには自分を良く見せたい、あわよくば憧れてもらいたい。そんな彼女らの虚栄心を知ってか知らずか、瞬は見開いた瞳をキラキラと輝かせて店内を眺めていた。
「お前も何か頼めば。」
通い慣れた地元店舗と違う洗練された空間に、驚きとときめきで一杯になっていた瞬は、有馬に話しかけられるまで今日の目的をすっかり忘れていた。
「いいの?ヤッター。」
バンザイして喜ぶ瞬の、ホイップレスのアイスカフェモカをオーダーし、有馬はスマホを翳して精算を済ませた。赤いランプの下でその様子を見ていた瞬は、周囲の視線が有馬に集まっていることに気付いた。身長はかなり高く、肩幅があり胸板が厚い。大きな切れ長の瞳と真っ黒な髪、父親譲りの四角い額にハッキリと意思を主張する眉。陽に焼けた浅黒い肌に、店内の女性客のみならず店員までもが落ち着きなく、チラチラと有馬を目で追い、ソワソワと声に聞き耳を立てている。
「テイクアウトで抹茶クリームフラペチーノとエスプレッソショット追加のキャラメルマキアートとホイップ抜きのアイスカフェモカ、本日のドリップ、アイスでお待ちのお客様~。」
必要以上に甘ったるい声に、はたと目線を上げると、カウンターから女性店員がこちらを凝視している。有馬が無言で商品を受け取ると、
「いつもありがとうございまぁす。お砂糖とミルクは要らないんでしたよね?」
チャンスとばかりに上目遣いでアピールをするのは営業の常套手段である。だが瞬はその店員の視線にそれ以外の思惑がありありと浮かんでいることを見逃さなかった。
「ストローお差しし致しします?」
緊張のあまり噛んでしまった店員は真っ赤になって二人のドリンクを手渡した後、テイクアウトの紙袋を差し出した。有馬が軽く礼を言って受け取ると、バックヤードから微かに響いてくる黄色い声に見送られて二人は店を出た。
「ねえゆうちゃん、ここからゆうちゃんの会社までってどれくらい?」
瞬がペーパーストローの飲み口を噛みながら尋ねると、
「すぐそこ。5分もかからねえよ?」
「へーえ、そうなんだ。あのお店、よく行くの?」
「うんまあ。ってゆうか毎朝。出勤ついでに買って来いって。」
成程、有馬はあの店の常連客で、毎朝決まった時間に来ることが分かっているのだ。店員は勿論のこと、あの客の中に有馬が目当てで通っている客もいるかも知れない。この愚兄の容姿が、実はとても女性受けするという驚きの事実に、瞬は笑いを噛み殺していた。そして、家ではいつも半裸でだらしなくソファに寝そべり、襟人に尻を蹴られている姿を知っていることに、優越感にも似た感情が湧き起こり、瞬はニヤリとほくそ笑んだ。
数分後、二人はマチヤチノの指定した建物の一角に並んで立っていた。
「そうだ、今日何時に終わる?俺さあ、さっきの店で待ってるから一緒に帰ろうよ・・・どーでもいいけど、ゆうちゃん仕事は?」
広い坂道から何度か角を曲がると、郵便受けのある入口から細い横道が伸びている。石畳を踏んで奥へ進むと空間が開け、古いアパート風にリノベーションされたエントランスが見える。実際訪れて分かる、地図上では非常に分かり辛い場所だ。
「俺に付き合ってくれんのもういいよ。ありがと、カイシャ行きなよ、遅刻しちゃうよ?」
瞬は約束の五分前に目的地に到着できたことに礼を言い、ドアの前に立った。
「あれ?」
自動ドアだと思い込んでいたが、一向に開かないドアの前に立ち尽くし首を傾げる。インターフォンを探したがそれらしき物は見当たらず、どうしたものかと建物の階上を見上げていると、有馬が自分のスマホを操作して、硝子のドアにカメラを向けるとスマホの画面に認証が現れた。そこへパスワードを入力するとカメラに写るドアの鍵穴がクローズアップになり、そこへ指先でキィのアイコンをはめ込む。
「えっ。」
突然リアルに解錠の音がした。
「ホイ、ドーゾ。」
有馬は慣れた足取りで、ドアを開け中に入っていった。
事態を飲み込めず呆気に取られて、瞬はただ有馬の背中を追いかけて階上へ続く階段を駆け上がって行った。