一秒でも長く君といられるなら【掌編】
「あーあ、帰りたくないなあ」
独り言のように呟いた。罠。
「なんでですか?」
後輩くんは、わたしが仕掛けた単純な罠にまんまと引っかかってくれた。
獲物を狩る蜘蛛になった気分だ。
「動きたくない」
「…疲れてるんですか?」
わたしと彼は、部室のテーブルを挟んで、互いに対角線の位置に座っている。
彼は上着を着たまま、少し前かがみの姿勢でスマホを弄っていたが、いつの間にか視線をこちらに向けていた。
もう夜8時を過ぎて、遠くの部室で騒いでいた学生たちも「飯行こうぜー」といなくなった後だ。
わたしは、とっくに閉じてしまったノートパソコンをしまわずに、だらだらと部室に居座っている。
「うん、まあ、疲れてる」
嘘だ。ほんとうは大して疲れてなんかいない。
夜は眠れていないけれど、ストレスのせいでもない。
「…じゃあ、ご飯でも食べに行きます?」
なぜか、その提案をする時は、ちょっと目が泳ぐ後輩くん。そういう様子を見て、わたしはいつも勘違いしてしまう。
「…いいけど」
わざとそっけない返事をする。
うれしい素振りを見せたら負けだと、本気で思っている、わたしは馬鹿だ。
馬鹿だとわかっているけど、止められない。
「いいんですか?」
「いいよ。てか、おなか空いてる?」
「おなかペコペコです」
「じゃあ、もっと早くご飯食べに行けば良かったじゃん」
そう言うと、ほんの少しだけ沈黙した後、
「だって、先輩が一人になるの嫌かなーと思って」
そう、こういうところだ。たまらなく愛おしく、たまらなく憎らしい。
罠にかかっているのは、彼じゃない。
蜘蛛の糸で絡めとられるのは、いつもわたしの方。
彼は自覚があるのかないのか、わたしの心を揺さぶる言葉を紡ぐ。
その度にわたしは心の奥でそっと言の葉たちを噛みしめる。
「きみ、ほんとう、やさしいよね」
「……僕が先輩といたかっただけなんで」
ほんとうに、あざとい。
そして、そういうキザなセリフだけは、なぜか真顔で言ったりする意図が、わからない。
「後輩くんはわたしのことが好きなのでは?」と何度自問したことか。
わたし、彼氏もいるのに、馬鹿みたい。じゃなくて、馬鹿だ。
彼氏のことは好きだ。けれど、後輩くんの言葉には、どうしようもなくドキドキさせられる。
「ずるいよねー、そういうこと言ってさ」
「なんでですか」
「ねえ、わたしのこと、好きなの?」って聞いてみたい。でも、聞けない。
そんなことを言ったら、彼氏への裏切りになりそうだから。
こんな感情を抱いている時点で、裏切ったも同然かもしれないけれど。
別に後輩くんとどうこうなりたいなんて、大それたことは考えてないし。なんなら、後輩くんの気持ちだって、ただのわたしの勘違いだろうし。
そう、勘違いのはず。でも、それならどうして、「なんでですか」なんて、食い下がってくるんだろう。真顔であんなこと言ってくるんだろう。
「なんでさ、そういうこと平気で言えるの?」
「どんなことですか?」
「わたしといたかった、とか思わせぶりなこと」
「思ったことを言っただけです」
「そういうとこだよ」
「言っちゃダメなんですか?」
ダメではない。もっと言ってほしい。
そう言いたい気持ちを抑えて、深く息を吐いた。わたしの理性を呼び戻すために。
「嫌な気持ちにさせました? 嫌だったら、ごめんなさい」
「嫌じゃないけど」
「勘違いしそうだから、やめて」とは言えない。
むしろ、とっくに勘違いしているんだから。
それで引かれて、距離を取られるのも嫌だ。
「よく真顔でそんなクサい台詞言えるねーって」
「…そうですか?」
2人の間にちょっとした沈黙が流れる。
「おなか空いてきたわー」
「食べに行きます?」
「え? たまには奢ってくれるって?」
「いやいや、先輩の奢りで」
そんなことを話しながら、わたしはパソコンをバッグにしまい、上着を着る。
長いこと部室にいたせいで、手が冷えて荒れていた。
暖房を切ったことを確認しながら、
「ま、別にいいんだけどね。その内、きみが先輩になったら、後輩に返してあげなよ」
わたしはこのまま、本当の気持ちはずっと言えないままだろう。その内、離れてしまうまで。
万が一、両想いになれたとしても、わたしは誰かと親密になるには向いていないから。関係は続かないだろう。
ただ、そばにいる今この時が、少しでも長くなればいい。
あとがき
学生時代の黒歴史をほじくり出してしまいました。バレンタインシーズン!好きな歌!のコンボで、急に思い出したのです…。
物書きになりたいと思っていたのも今は昔のため、お手柔らかに願います。