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チェルシー
あなたにもう、チェルシーあげられない。
チェルシーが生産終了になった。ある世代以上の人なら当時のCMもすぐに思い出せるくらい有名なキャンディーだが、終売の記事を見て「子供の頃よく口にしていたのに、なくなるなんて悲しい」と感じるということは、その存在を忘れもうずっと買っていなかったということだ。チェルシー側からしたら勝手極まりない話である。
私にとってのチェルシーは、子供の頃の海水浴の味だ。夏休みの家族旅行の行き先は、毎年房総半島の御宿だった。童謡「月の砂漠」誕生の地であり、白い砂浜が人気の海水浴場である。
思いきり遊んで海からあがると、宿泊している民宿の名前がマジックで書かれたパラソルと、そこに干してあるバスタオルの柄を頼りに「わが家の場所」を探して帰る。レジャーシートの上で留守番をしている母がタオルと水筒から注いだ麦茶を渡してくれる。そしてたっぷり海水をかぶった私の口に飴を放り込む。チェルシーの赤、バタースカッチ味。あのこっくりした甘さが、塩辛い口の中と遊び疲れた身体を中和してくれた。大人になってからもチェルシーの花柄を見るたびに、海水浴場の風景と今の私よりはるかに若い母の姿とサンオイルの甘ったるい香りを一緒に思い出す。
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日が暮れたら、今度は花火と水の入ったバケツを持って再び海岸に向かう。日中たっぷり海で遊んで塩まみれになった髪も身体も、風呂に入ってワンピースに着替えた今はサラサラしていて心地よい。今思うと、あの頃は真夏でも暗くなると涼しかった。
聞こえてくる誰かのロケット花火の音に急かされるようにビーチサンダルを砂に取られながら海岸を歩くと、やがて二頭の駱駝に跨った男女の銅像が夕暮れの砂浜に現れる。銅像の足元に近づくとオルゴールのような音色の「月の砂漠」が流れている。その童謡にしてはマイナー調なメロディと、碑に刻まれたロマンチックなんだけれどどこかもの寂しい歌詞のせいで、駱駝に乗った二人の旅路があまり幸せそうに思えず、子供なりにいつも胸がざわざわした。
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先日、本当にその頃以来で房総半島に滞在した。海外と日本を行き来している友人が、御宿のすぐ近くに帰国中の拠点にする家を借りているので、そこに遊びに行ったのだ。
目的地へ向かう外房線が御宿駅に停車したので、私は自分の記憶をフル稼働させて改札の外を観察してみたが、当然ながら当時の面影は何も残っておらず、変わらずにあるのは駅からまっすぐ伸びる道路だけだった。この道沿いにあった古臭い土産物屋で、コルク栓の小瓶に入った、小指の爪ほどの小さな桜貝の詰め合わせを買ってもらったことなどを思い出しながら通り過ぎた。
彼女の住まいの最寄駅で降り改札を出ると、今年最初の真夏日だった東京よりも明らかに涼しかった。
スマホで連絡をして地図アプリを見ながら歩き出す。大人になった私は一人でどこへでも行けるし、こんなふうに自分の子供時代をトレースするような夏休みを過ごすこともできるのか、と妙に感慨深かった。
トンネルを出たら右手に海が見えてきて、途中にコンビニがあったらちょっと寄って冷たい飲み物と久しぶりにチェルシーを買いたいと思ったけれど、東京みたいにぼんぼこコンビニが建っているわけもなく、そもそもチェルシーはもう、どこにも存在していないのだった。
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