月百姿 鶏鳴山の月 子房
漢の三傑、内政の蕭何、武勇の韓信と並び称される張良(字は子房)。張良は韓の名門に生まれ、祖国を滅ぼした秦への復讐を図り、暗殺を試みたが失敗し、任侠の道に身を投じた。その後、伝説的な出会いによって黄石公から太公望の兵法書を授かった。陳勝・呉広の乱の際に劉邦と出会うことになる。以降、張良は劉邦を外交・軍略の両面で支え、数々の策を進言した。中華統一後、3万戸を領地として賜り、晩年は健康に留意しつつ神仙と戯れ、劉邦よりも長寿を全うした。粛清を予期し、出世しすぎることのリスクを理解していたのだろう、全てを劉邦にやらせたとも言える。
張良は、女性のようだと伝えられるほど細身で慎み深い外見をしていたが、その智謀の深さは広く知られていた。日本では、兵法にまつわる一巻の書を授かる話(子房取履譚)や、項羽と沛公が咸陽宮に攻め込み秦を滅ぼす話などが描かれた室町時代の物語(お伽草子)の「張良絵巻」が人気を博した。張良を題材にした作品は、お伽草子以外にも能や幸若舞曲などで見られる(出典)。軍師・黒田官兵衛孝高も徳川秀忠に「当代の張良」と評された。
月百姿に描かれた場面は、四面楚歌の故事で有名な垓下の戦い。張良は付近の鶏鳴山に登り、楚に滞在した際に習った簫(しょう:縦笛の一種)を吹いた。長く離れていた故郷の楽器と歌を聞いた楚兵は、戦意を失い逃散していった。項羽は宴を開いた後に出陣したが、烏江で討たれた。
謡曲を好んでいた芳年は、黄石公ではなくこの夜の場面を選んだ。張良の繊細な表情は、敗軍への情けか、統一後の将来を見通していたのだろうか。張良の衣服に施された細やかな正面摺りが大変素晴らしい。