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教導立志基 羽柴秀吉

明治18年(1885年)。教導立志基 三十三 羽柴秀吉。

毛利家の外交僧・安国寺恵瓊との交渉に臨む秀吉が描かれる。備中高松城の戦いの講話の場面。本能寺の変を毛利家に知らせずに講話し、羽柴軍は中国大返しに向かう。  

実際には、毛利家との交渉は蜂須賀小六と黒田官兵衛が務めたようだ。秀吉の着ている孔雀羽装陣羽織は加賀藩に伝えられている(出典)。

秀吉が猿顔に描かれている
芳年武者无類 木下藤吉郎と同じ顔

安国寺恵瓊は、毛利に滅ぼされた安芸武田家の出身とされ、幼少期に銀山城の落城したため安芸安国寺に逃れたと伝えられる。京都東福寺で修行を積み、後に東福寺の住持として禅僧の最高位に就いた。外交僧として足利義昭と織田信長の調停や毛利家の外交交渉を担い、備中高松城の戦いの講話後に豊臣秀吉の信任を得て、伊予6万石を領する大名となった。

恵瓊は関ヶ原の戦いでは総大将・毛利輝元の下で西軍の組成に尽力したが、開戦前に吉川広家が東軍に通じており、敗北後に責任を取らされる形で処刑された。広島の不動院には恵瓊の墓や五輪塔が現存する(参考)。

国際浮世絵学会2024年秋季大会では本作の引用元となった書籍に関してパネルセッションで紹介された。


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