大日本名将鑑 左馬頭義朝 長田荘司景宗
頼朝や義経の父・源義朝は東国で勢力を伸ばし、京へ再び戻って下野守に任じられた。東国武士団を率いて保元の乱(1156年)で戦功を挙げ、左馬頭に任じられるが、平治の乱(1159年)で敗北して都を落ち延びた。尾張国知多郡内海へ着いた義朝の一行5名は、親戚である長田忠致(おさだただむね、長田荘司とも)の屋敷にかくまわれた。しかし、長田忠致は子の景致(景宗)と共に義朝を討ち取ることに決め、1160年正月三日に一行に酒を飲ませて郎党に湯屋で襲わせた。享年三十八歳、義朝は生涯を閉じた。
後に源頼朝が兵を挙げると長田忠致はその列に加わり、頼朝からは神妙に天下統一後には美濃(みの)・尾張(おわり)をやると言われて抜群の手柄を挙げた。しかし、頼朝は上洛の際に野間に立寄り、会式の際に長田父子を捕え、約束通り身の終わりをくれてやると言って処刑した。(出典)