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風俗三十二相 あぶなさう 明治年間 当時芸妓の風俗
風俗三十二相より芸姑の風俗。芸者が着物の裾を持ち、船から桟橋へ揺れる足元を気にする。ほろ酔いなのか船が揺れるのか、あぶなっかしい場面。
つぶし島田と呼ばれる髪型は、江戸時代後期から明治にかけて人気があった。天保の改革で、天保13年に深川の岡場所は撤去されて、柳橋(現・台東区浅草橋)に芸者が移り住むことで栄えた(出典)。
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本作と直接関連するわけではないが、柳橋の花街についてまとめておく。柳橋は明暦の大火(1657年)で江戸の町が焼け野原となった後、幕府は延焼を防ぐため「広小路」と呼ばれる火除け地を設け、その一つが「両国広小路」で柳橋の対岸に位置した。吉原遊郭が今の日本橋から浅草に移転した後、猪牙舟で隅田川を渡り吉原へ向かうことが流行し、柳橋には船宿が増えて宴席の場としても利用されるようになった。
船宿が宴席を提供するようになり酒楼や料亭が軒を連ね、柳橋は花街として発展した。「辰巳芸者」と呼ばれる芸者が深川から流入し、柳橋芸者として高い評価を得た。柳橋芸者は「化粧が薄く、意気が爽快で、客に媚びない」と評されて江戸の粋を体現する存在だった。明治時代には新橋(銀座)の芸者たちも柳橋芸者を立てるほど地位は高かった。
しかし、昭和期に入ると、高度経済成長期に隅田川の水質悪化や堤防造成による景観の変化が起こり柳橋の客足は減少し、芸者の数が減り、花街としては衰退していった。最後まで残った料亭「いな垣」が1999年に閉店し、柳橋の花柳界は400年の歴史に幕を閉じた。現在の柳橋は閑静な住宅街だが、その歴史は、小説「流れる」(幸田文)や浮世絵、写真などで今に伝えられている。現在も柳橋には、かつての料亭をルーツとする割烹料理「亀清楼」や地元の人々に愛される古くからの飲食店が残る(出典)。
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初刷は3色、後摺りになるほど2色、茶色1色とその数が減るとされる。