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山本勘助猛緒を撃つ
1868(明治元)年。本作は応需芳年とあるので人に頼まれて描かれた、ほぼ出回っていなかった大変珍しい作品。山本勘助は武田家の伝説的軍師、一説には手負いの猪と戦い負傷して、隻眼となった(出典)。
山本勘助は武田二十四将や五名臣に数えられるほど江戸時代には大変人気があった。甲陽軍鑑にしか記載がなく長年架空の人物ではないかとも言われたが、1969年のNHK大河ドラマをきっかけに発見された市河文書で山本菅助という武将が確認され、2008年に群馬県で発見された真下家所蔵文書により武田信玄配下の家臣として裏付けられた(出典)。
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いくつか伝承があるものの、一説には山本勘助は明応9年(1500年)8月15日に八名郡賀茂村(現・愛知県豊橋市賀茂町)で山本藤七郎の三男として生まれ、勘助は15歳で牛窪(現・愛知県豊川市牛久保町)の牧野家家臣である大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改めた。26歳で武者修行のため諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)へ出立する。勘助は諸国を歴遊し武名を高めて35歳の冬に大林家に帰還したが、勘左衛門に実子が生まれていたため養子縁組を解き、再び山本姓に戻った。その後、関東の地を歴遊し、45歳から甲斐国の武田信玄に仕えることとなった。
1561年の上杉家との第四次川中島の戦いでの討死は史実とされるが、その詳しい記録は後世の創作的要素を含む可能性が高い。現在、勘助の墓は長野県の川中島合戦場跡と故郷の愛知県豊川市牛久保町の2カ所に残されている。豊川市の長谷寺には勘助が武田信玄に仕官する際に託した遺髪が埋められた五輪の墓が建立され、勘助が守護神としていた摩利支天像も共に安置されている。
勘助の容貌は目と足が不自由で、指も満足になく色黒で大変な醜男といわれているが、一方で築城術に優れ、高遠城、小諸城、海津城を築き、「山本勘助入道道鬼流兵法」という築城術を確立したとされる。また戦略面では啄木鳥戦法を考案し、戸石城の戦いでの活躍や、武田家の法令「甲州法度之次第」への関与なども伝えられる(参考)。実際には高坂昌信ら武田の武将たちの逸話が吸収されて山本勘助像に繋がっていったのだろう。
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三州牛久保の人
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山本勘助には猪退治がエピソード伝わり、浮世絵の題材としてよく取り上げられた。猪の牙で勘助が片目を失ったとする。芳年の師である歌川国芳も山本勘助を好んで15点以上描き、「忠孝名誉奇人伝 山本勘助」に巨大な猪を素手で組み伏せる場面があり(参考)、芳年は本作の参考にしたのだろう。
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MFA Boston
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