見出し画像

大阪夏御陣御危難の圖

明治7年(1874)作。大阪夏の陣で長宗我部盛親が徳川家康の本陣に迫る場面が描かれた。「惜しい哉、真田を言いて毛利を言わず」と言われても、長宗我部盛親が取り上げられるのはさらに珍しい(出典)。応需大蘇芳年となっているので依頼があったのだろ。

土佐の長宗我部盛親は、元親の四男として生まれ、兄たちを飛ばし跡目を継いだ。しかし、関ケ原の戦いで西軍につき、また家臣の讒言から兄を誅したことから改易された。14年間の牢人生活では旧臣らの仕送りや寺子屋で身を立てたが、大坂の陣になると豊臣方に加わり、真田幸村や後藤基次とともに豊臣の五人衆と呼ばれた。

1615年5月6日、盛親は八尾・若江の戦いで藤堂高虎と激突した。騎馬隊による奇襲で一時は優勢に立ったが、井伊直孝らの援軍で撤退を余儀なくされた。大坂城の炎上後、盛親は京都へ逃がれたがが捕まり、処刑される際に「命と右の手さえあれば、家康や秀忠を同じ目にあわせられた」と語ったとされる(参考)。

大久保忠教と水野勝成だろうか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?