月百姿 名月や来てみよかしのひたい際 深見自休
深見自休こと十左衛門(1641?-1730)は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した男伊達(侠客)。本姓は深溝氏、名は貞国。藤堂家に仕えたのち浪人となり、江戸で男伊達の頭目として名を上げた。酒井雅楽頭忠清の家臣6人と喧嘩し評判を得るが、幕府の取り締まりで隠岐に流されて、20年以上ののち赦免されて江戸に戻る。その後は剃髪して自休と号し、俳人の西山宗因に師事した(出典)。
題名の句「名月や来て見よかしの額際」は自身の広い額を詠んだもの。数々の逸話とともに名を残し、90歳で没した。歌舞伎『助六』の髭の意休のモデルとも言われることもある。
歌舞伎の「助六所縁江戸桜」に登場する髭の意休は、深見自休や幇間の無休、穢多非人頭の浅草弾左衛門もモデルにしたとされる(参考)。助六の恋人である揚巻に横恋慕する白髪白髭の敵役。助六が探す宝刀・友切丸を持っているため、最終的に助六に討たれる。
由井正雪の乱を契機に、江戸の街には旗本奴や町奴が勢力を増し、「大額」「大月代」の髪型に、朱鞘や黄漆の鞘、大鍔の長刀を帯びた姿で歩き回るようになる。やがて男伊達と呼ばれる中で増長し、商家から「お断り」と称して金品を巻き上げる集団に発展していった。町奴は、口入れ業を通じて生計を立て、荒っぽい浪人を従えて自衛力を誇示し、力を持った者は割元や元締と呼ばれて大名や旗本に浪人や無職人を紹介し、親分は客親として慕われつつ恐れられた。元禄期になると火消し人足も勢力を伸ばす。旗本・御家人の次男三男が務める武家火消しや、町奴や鳶職が集まる町火消しが台頭し、「宵越しの金はもたない」「太く短く」といった江戸っ子気質が広まった。八代将軍吉宗が江戸の防火対策を強化すると火消し組織はさらに発展し親分子分の絆も強固になった。そこで臥煙と呼ばれる男たちも現れる。臥煙は大名や旗本に仕え、火消しに従事しながら傍若無人な振る舞いを見せ、全身に刺青を施す文化を生んだ(参考)。現在も浅草に繋がる文化的源流である。
江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部を統括する権利を得た浅草の「弾左衛門」は、被差別民を支配する世襲の役職で、幕末まで続いた。弾左衛門は江戸町奉行の監督下で、長吏や非人・猿飼らを統制し、警備や刑の執行管理、さらに歌舞伎の興行や皮革等の専売権も持ち、莫大な財力を背景に金融業も営んだ。一方で、賤民とみなされて庶民からは激しい差別を受けていた(参考)。悪役の髭の意休にも、そのような文脈が含まれていたのかもしれない。