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熱を感じる

日記だか小説だかの曖昧なラインでこの文章「マガジン-日記」を書いております。フィクションであろうとノンフィクションであろうと、読んだ人が何かを受け取って世界を見る目が変わったら(主語でかい)いいな、その見方はポジティブなものであってほしいなと思っています。

今日の日記は以下が本文です。


わたしの手首を掴んだその人は、自分が掴んだ先をじっと見てから「あたたかい」と言った。血が通っているから当たり前だ、わたしは死人じゃないから当たり前だと思ったけれど、血が通っていてあたたかいから生きていますとはっきり言えるほどの自信もなかったから、わたしは体温が高い方の人間なんだよとだけ返した。実際、春、秋、冬の平熱は36度8分あり、夏には37度をこえる。小学校の頃、プールに入るために記入する欄にはいつも微熱と書かれており、プールが好きだったわたしは親や先生からこれじゃ入れないよと言われるのをいつも恐がっていた。それも中学、高校にあがれば平然と「微熱があるので入れません」と自己申告するくらいにはプールの授業は面倒で、自分の平熱の高さに感謝をすることもあったけれども。

その人は手も足も、年中冷んやりとしていた。一度、冗談で「生きてない?」と聞いたら「そうかもしれない」と笑っていた。生きていても、死んでいても構わないといった風でとても印象に残っている。しかしいくら冷たいといっても、わたしの手首から感じられる体温は十分にあたたかく、むしろ暑いくらいだった。

熱あるの?
別にそんなことはないと思う
そう

それからわたしの手は離され、手は居場所を失い、気まずそうにわたしのひざの上に戻ってきた。手に居場所などと常日頃から考えているわけではないが、その時はほんとうにそう思ったのだ。手の居場所。足の居場所。どこだ。意識しすぎると動きがぎこちなくなり、自分のものなのに借り物のような気がしてならない。わたしは時々、歩き方や声の出し方も忘れるのだ。自分の体の感覚が、意識すればするほど遠くなる。生まれながらに手足がなかったり、なんらかの理由で手足をなくした人は幻肢を通して、ない手足を感じることがあるそうだが、その逆のような感覚かもしれない。あるのに、ないように感じる。

両手のてのひらを上に向け、握ったり、開いたりしてみせる。

また分からなくなったの?
そう
手、ちゃんと動いてるよ
今わたしは頭の中で手を握る、開くと考えてるのがちゃんと伝わってる
それってなんかすごく変

その人に初めて会った時、なんでか知らないけれどそういった話になって、わたしは分からないんですと素直に話した。その時もその人は「それってなんかすごく変」と言ったし、わたしがするようにして手を握ったり、開いたり、思いきりぎゅっと握ったりして自分の手というものの存在を確かめていた。それで、ごめん、やっぱり分からないやと諦めて言った。わたしもその話をするのはもう諦めて、天気とか、趣味とか、好きな食べ物とかの他愛もない話をした。他愛のない話は人と人をうまく繋いでくれるとその時はじめて認識した。そう思えば他愛のない話も苦痛ではない。沈黙より。理解できないことに互いに頭を悩ますより。

その人は今度はわたしのひざに手をのせ、あたたかい?と聞いた。あたたかい。でもあたたかいかどうかって、ひとつでは分からないと思わない?何かと何かが触れ合っている間にだけあたたかさが生まれる。それで、その何かと何かは互いに生きていないといけない。生と死のあいだでは、あたたかさは生まれないんだよ。だからあたたかいと感じられたら生きているんだし、そのことにはっきりとした理由は別になくていいよ。

話しながらその人の手は、わたしのひざに触れたり、離したりしている。あたたかい、何も感じない、あたたかい、何も感じない、あたたかい。確かに触れている時だけは間違いなく熱が発生している。話を聞いても、あたたかさを感じてもわたしの頭の中ではまだぴんときてはいなかったけど、あたたかさを感じる自分だけはどうしても疑うことができなかった。あたたかさには信じるもなにもない。ただあたたかいと感じられる心があって、あたたかさは事実だった。

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