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わたしは文章を書いていない

天気のことが人よりわりと気になる質だ。気付けば天気の話をしてしまう。夏は特にその傾向がつよく、晴天の日の太陽を嫌がり、頭痛がやってくる雨の日を恐れている。かなり天気に影響される体なのだ。それにより普段より3cmほど性格が荒くなる。しんどい時にその人の本質が分かるとかいう話があるが、そう感じる場面があったとしたら、その人は普段、周囲にかなり気を遣っている優しい人なのだ。そんな人が、たまの不調時に自分の気持ちを優先させることの何が本質というのか。都合のよい解釈だ。

最近ずっと、人のこととか、人生のこととか、仕事のこととか、文章のこととかを考えている。悩んでいるのではなくただ考えている。不安もある。たとえば人のことを考える時、誰かが目の前にいなくても私は息苦しさを感じる。その息苦しさを解消したくて、また人のことを考えて、さらに息苦しくなる。海に落ちて呼吸ができなくて、もう無理だと息を吐き、水を吸い込んだら体が楽になる(この場合は死だけど)ように、息苦しさを通り抜けた先に解放されることがあるのではないかと思ってしまうのだ。ただ水中の場合のようには人とのことはそう簡単にうまくいきはしない。

文章のことを考える時、私はただ存在する文章を表に引っ張りだすための存在なのだなと思う。私がいるから文章がうまれるのではなく、文章のために私がいるという逆の流れが起き始めている。だから私が文章を書こうとする時、それはたいてい失敗する。私はただ目に見えていない文章を感じて、それをこうして書き記しているにすぎない。そこに私は存在せず、文章だけがある。

そう思うと、人が存在することは不確実なのかもしれない。人は自分を見失うと自分探しの旅にでるが、そもそも過去に自分というものがあり、それが失われたと考えることすら変な話だ。まず自分が存在しないのだから、探さなくてはならない自分などいない。でも万が一を考えてみんな自分探しに出かけるのかもしれない。だとしたらそれはいいことだ、たぶん。

環境的に、前より考える時間が増えたけれど、考える範囲については自分の周囲に限定されるようになったと感じる。今までが広い範囲のことを考えすぎていたという考え方もできるだろう。現時点でいえば、考えることの範囲は今が結構ここちよく、この範囲を保ちたいと思う。考えないのもよくないが、考えすぎるのもよくないので、ほどほどに。

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