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右脳と左脳と自分
1. 右脳を使って生きる
これから書くことは科学的根拠があってのことではない。
ただ自身の経験と、身の回りの人たちとの体験との間からなんとなくそうだと思うことをまとめてみる。
サッカーは右脳的な働きが強くなる。
音楽や踊りもそう。
本を読んだり、気の置けない友人との会話。
それらの時間は、右脳をよく使っているなと思う。
散歩のそのひとつ。
これらのことをしているときは、点と点が繋がることが多い。
言葉が、イメージが、感覚が、「降りてくる」といえばいいのだろうか。
正直、右脳で感じ取れることを100パーセント文字に起こすことは不可能だ。
スペイン語は英語に比べて、もしかするとリズムやテンポの重要度が高い言語なのかもしれない。
英語はより論理的、左脳的な脳の活動を要する言語であるように感じられる。
もちろん、どちらの言語もルーツはラテンだが、枝分かれした際の違いとしてリズムやテンポが挙げられるんじゃないかと予想する。
書くときにテンポを感じながら書けると右脳を優位に使っている気がする。
ただただ頭の中身が流れ出てくるように文章が書ける、そんな感覚。
2. 左脳は賢い
左脳は言うならば、自分自身を未然に危険から守るために論理的思考の手助けをしてくれる一方、不安や恐怖を駆り立て身動きを取れなくするのにも一役買う。
頭が良すぎることで要らぬ心配までしてしまうということだ。
結局、長いこと心配事に頭を巡らせても、振り返ってみたら大半は大事じゃなかったと気づく。
またいくら論理的に思考したところで、自分たちがおよそ理解できたと思っていることのほとんどは、半年後、一年後には覆されるなんてことばかり。
論理だけに頼るならば、その機能の半分も使いこなせない。
その逆もしかり。
右脳と左脳を交差させて使うことが自分たちの能力をより引き出してくれると信じている。
右脳と左脳と自分。
感情と理性。
たしかな技術の積み重ねが感情と理性を冷静に捉えるためのキーになる。
完璧は存在しないが、本質に迫ることはできる。
感情と理性を乗り越え、その先にある新たな課題へと向かう。
サッカーとは終わりなき旅。
言語もそうである。
人を理解しようと努め、歴史を紐解こうと耳を傾け、先人たちをリスペクトする。
そのうえで自分たちがこの現代で表現できることはなにか。
それは手に掴もうとすると逃げていくような、雲のようなおぼろげなものかもしれない。
けれど、確かな手触りと、希望を胸に一歩前へと歩を進めようとする。
いまの僕の人生はそんな日々だ。
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