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日記
助走時間が長ければ長いほど、スピードが早ければ早いほど、衝突事故を起こした時の脳の破壊は大きくなるんだと思う 今まで必死で走り続けてきた時間全てが鬱病になるための前フリに過ぎなかったんだなと今だから分かる 全部意味なんて無かった
絶対評価としての希死念慮の最大値が100だと仮定しても、だからと言って100になった時点で肉体的に限界を迎えて死ぬわけでもないし、これは言い換えると末期癌とは違って精神病の行き着く先は必ずしも死ではなく、自死を選ばなければ死は与えられず、こんなの生殺しもいいところだよなと生の不条理に悔しくなることがある
ただ同じ病名ってだけで分かるヅラしてくる奴も鬱陶しいし、ただ失恋したからって分かるヅラしてくる奴も鬱陶しいし、ただ浮気されたからって分かるヅラしてくる奴も鬱陶しいし、全部全部鬱陶しい 知らない癖に知った気になっている人全員にヘイト吐き散らかして死んでしまいたい
精神的な虐待をどれだけ受けたかそのものも確かにその人の苦しみとは切り離されないものだけど、どちらかというとその精神的虐待によって生まれた、「そうするしかなかった」論理のひとつひとつが積み重なって、それを正しいものとして生きるしかなくて、だけどそれを積み上げた先にあるのは幸せな未来なんかではなくこびりついた過去でしかないと気づいた瞬間に全部無駄だったんだって分かるし死ぬこと以外救済ではないと簡単に結論づけられてしまう それが明白なものと思えてしまうから、僕は自死を否定しない そしてそれと同じくらい、誰にも語れず抱え込み続けた「そうするしかなかった」論理を肯定していたい