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初盆と幻

 棺桶の窓から覗く随分と萎んだ顔。
 黒い額縁の中で図太そうな笑みを浮かべる白髪の老人。
 父の弔辞。故人にとっては息子の弔辞。
 僧侶に合わせて参列者が呟くように読み上げるお経。
 厳かに煙る焼香。
 火葬炉前で待つ親戚一同の静寂。
 箸から箸へと渡される大小様々な遺骨。

 昨年の夏、祖父が亡くなった。

 仙台駅の東北新幹線中央改札前は、お盆の只中にもかかわらず大して混雑していない。私は両親と共に改札を眺めていると、リュックサックを背負った弟が向こうからやって来た。髪が伸び放題の弟に対して、「なんなのよその髪は」といきなり母が小言を言い始める。半年振りに全員集合した私たち一家は、昼食の牛タンにありつくべく駅のレストラン街に向かった。
 父方の祖父が亡くなって一年が経過した。祖父が亡くなったのは昨年八月の頭で、今年が初盆にあたるため、家族全員で墓参りにいくことになった。今朝早くに両親と私は秋田の家を出発し、昼頃に仙台駅で弟を拾ったあと、祖母の家に顔を出すという流れになっていた。

 閑静な住宅街の中に佇む一軒の前に車が止まる。私たち一家が車を降り、荷物を下ろすためがさごそしていると、目の前の家のドアが開いた。「あら! いらっしゃい」と朗らかに笑う祖母の髪は、絹糸のように真っ白である。玄関の向こうでは、従姉が私に向かって「相変わらず細いねえ」と笑っている。どうもどうも、と簡単に挨拶をしながら私は祖母の家に上がり、居間の扉を開けた。
 居間の中央に置かれたテーブルの前に、祖父が座っている。高校野球を実況しているテレビの正面を陣取りつつ、競馬新聞を広げて、何やらノートに書きながら分析している。祖父が私に気づくと、「おお」と嗄れ声で言いながら、太い眉毛を少し上げる。その眉毛の太さは父を経て私にも遺伝しているぞ、と思いながら、私は正座をして、ご無沙汰してます、と挨拶をする。
 ーーそれは幻。居間には誰もいない。居間の隅にある小さな仏壇には祖父の遺影が置かれていて、その光景は幻と現実に明確な線を引いた。私は線香を立て、静かに合掌した。
 私たち家族が居間に集まると、祖母と従姉が萩の月と冷たいお茶を出してくれた。主に祖母と父(母と息子)が近況報告を交えつつ話しているのを聞きながら、私は萩の月を頬張った。仙台には子供の頃から毎年のように顔を出していたから、飽きて食べなくなっていた萩の月も、久し振りに食べると懐かしく、甘い。居間の一角には、かつてこの家に住んでいた何匹もの兎や猫たちの写真が飾られていた。
 墓参りには早めに出かけることにした。台風の影響が残る東北全域では、天候が不安定だったからである。父が運転席、祖母が助手席に乗り、母と弟、私は後部座席に座った。父の運転に身を委ねながら、祖母の綺麗な白髪と父のロマンスグレーを眺める。ここ数年、父の髪はボリュームこそ維持されているが、色素は明らかに抜け落ちている。息子である私が三十歳を迎えたのだから、それは至極当然のことだった。
 隣町の寺院に到着し、車を降りる。曇天の割にはけっこう蒸し暑かった。一昔前は、仙台の夏は「やませ」という冷たい風が吹き、妙に涼しい感覚があった。最近は仙台だろうとどこだろうと、日本は亜熱帯並みに暑い。墓に向かう途中で、父の従妹の家族と擦れ違い、私は軽く会釈をした。
 祖父の墓の前に着き、父が墓石に水をかけている間に、私は線香の束に火をつける。着火したはいいものの、手で仰いでも炎の勢いが収まらない。私が狼狽えていると、「とりあえず貸せ」と隣に父がやって来る。父が慣れた手つきで線香の束を薄く押し広げ、勢いよく手で仰ぐと、あっさりと線香は鎮火した。直に浴びていた煙の匂いと自分の不器用さから来る羞恥心に身を包まれながら、私は父から自分の分の線香を受け取った。
 線香を手向けたあと、墓石の横に立てられた墓標を眺める。そこには戒名と本名、亡くなった年齢が刻まれていた。戒名というものは、一見しただけでは込められた意味がわかりかねることが多いが、祖父の戒名からは明らかに「自分の我を貫き通す」のような意味が伝わってきた。たしかに祖父は若い頃、家庭を顧みず工務店の経営に注力していたそうだし、老後は自身の趣味である競馬に没頭し、オリジナルの競馬理論を信じて疑わなかった(祖母曰く、「その方法で当たったんだか?」と聞くと、祖父は決まって言葉を濁していたという)。
 帰り道は地元の人しか使わないような農道を走った。「この辺りはだいぶ電柱が真っ直ぐになったねえ」と祖母は言った。この地域は東日本大震災の際、例に漏れず甚大な被害を受けた場所だった。大きく傾いた電柱や亀裂だらけの道路は、私も実際に目の当たりにしたことがある。でも、
「この高速道路のお陰で、うちのほうは助かったからねえ」
 祖母が言うように、高いところを走る高速道路が堤防のような役割を果たしたことで、祖母の家がある住宅街までは津波の手はぎりぎり伸びなかった。墓参りの帰り道、この場所に差しかかると、祖母はいつもこの話をした。
 高速道路の下に設けられた短いトンネルが迫ってくる。海水が流れ込んで使い物にならなくなった田んぼの上に、かつてそこに取り残されていた漁船が一瞬だけ視界に映った気がした。きっと幻とは突拍子もない妄想などではなく、多くの場合は喪失の記憶なのだろう。

 仙台から秋田に戻った翌々日、私たち家族は地元の神社にお参りすることにした。今年の正月は祖父が亡くなってからまだ一年が経過しておらず、初詣には行けなかったが、今はもう喪が明けている。
 正月は石段の下まで参拝者の列が伸びるほど混み合う神社も、夏は人っ子一人おらず、境内の森から抜けてくる風が涼しい。鳥居の前で一礼し、そこまで長くはない石段を上り切ると、立派な本殿に夏の陽光が降り注ぎ、青銅葺きの屋根が厳かに光っている。本殿の正面に進むと、私は財布に入っていた五十円玉を取り出し、賽銭箱に入れた。二礼、二拍。目を瞑る。
 ーーああ、そうか。今はもう、何も願うことがない。
 一昨年から昨年にかけて、私は日本一周の旅に出ていた。それは唯一、私が死ぬまでにどうしてもやり遂げたいことであり、日本一周期間中は神社に参拝するたび、私は無病息災・交通安全を真摯に祈願した。神のご加護のお陰か、旅は無事終わりを遂げた。どうしてもやりたいことがなくなった以上、何かを希う思いが湧いてこない。とりあえず自分の健康を願ったあと、私はすぐに目を開けて一礼した。
 本殿の横に併設された社務所には、多種多様なお守りが並べられていた。お守りを受ける前に、私は白い袋を神職の方に託す。そこには家族から集めた昨年のお守りが入っている。鈴のついた私の開運お守りが、しゃらりと小さな音を立てた。
 今年のお守りは、最も一般的なものを選んだ。交通安全でもなく、縁結びでもなく、シンプルな紫色のお守り。社務所を出ると、蝉の声が雨のように降り注いでくる。
 自分には積極的に生きる目的がなくなっていたことに、私は気づいてしまった。だからといって希死念慮が浮かび上がってくるほど、死にすら積極性はない。両親を看取るまでは生きる、ただそれだけのことである。
 お参りを終えて石段を下りていく。十年、二十年と過ぎていけば、私があんなに切望して実現した日本一周の旅も、きっと忘れていく。もう二度と行けないようなあの場所の情景が、更新されることなく幻と化していく。
 そういった幻は、ある日ふとした拍子に、日常の中に浮かび上がる。

 早朝に弟が家を出て、父も単身赴任先に戻るべく、昼頃に家を出ることになった。空港まで車で父を送るため、母も連れ立って出かけていく。私は玄関まで出ていって、両親を見送る。

 じゃあ、またね。体には気をつけて。

 かちゃり、と家の鍵を閉める。その応酬に嘘はない。

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