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梅雨と二十九

 蛙の鳴き声がカーテン越しに聞こえる。少し湿度の高い七月の夜、小さな部屋で聞くその声は、私にとってはちっとも騒音ではない。むしろ少年時代を思い起こさせるような、ノスタルジックな歌声である。
 あの頃の私は臆病だった。知らない世界が怖くて、知らない未来が怖かった。三つ子の魂百まで、と言われるように、今も昔も私の本質は変わっていないのだろうけれど。
 それから数十年の時が流れた。まもなく三十歳の私は、小さな会社の社長を務めながら、実家で母と暮らしている。

 四歳から十八歳まで、私は秋田県に住んでいた。鳥海山の麓にある人口三万人ほどの小さな町。その町外れにある小さな団地で暮らしていた。
 団地といっても、十二戸ほどの集合住宅が一棟しか建っていなかったので、都会のそれとは規模が全く異なる。裏手には田んぼが並び、梅雨時になると蛙の大合唱が喧しかった。
 そんな小さな町で小学校・中学校時代を過ごした。百人ほどの同級生の中で、私はずいぶんと「優秀な子」だった。期末テストでは一番から三番をキープしていたし、推薦を受けて生徒会長に選ばれたこともあった。まだ大海を知らぬ蛙は、小さな井戸の中でケロケロと鳴いていた。
 十六歳の年、小さな町を出て秋田市内の高校に進学した。往復二時間の電車通学は楽ではなかった。私が利用していた羽越線は海沿いの区間が多く、少しでも風が強いと電車が止まるため、特に冬は高校に辿り着くことすら容易でない日もあった。その後、十七歳の年に実家が引っ越したことにより、通学は劇的に快適になった。
 高校は全県から「優秀な子」が集まってくる進学校だった。その中では私は割と平均的な生徒だったが、英語の成績だけは上位層にいたので、担任の先生が東京の外国語を学べる大学を進学先として勧めてくれた。言葉には昔から関心があったので、私はその大学を志望することにした。
 そして十八歳の初春、運良く志望大学に合格。文字がユニークで可愛いという理由だけで、タイ語を専攻することにした。そして三月の末、少年時代を過ごした秋田を去り、私は上京した。

 十九歳から二十七歳まで、私は東京に住んでいた。東京といってもそこは府中市の外れで、すぐ近くには自然豊かな公園もあった。そんなのびのびとした環境で、私は大学の四年間を過ごした。タイ語を学びながら学園祭実行委員会とアカペラサークルに所属していたあの時代は、私の青春と言って差し支えないと思う。
 そんな彩り豊かな日々の中でも、二十歳になるまでの数か月感は怖かった。正確に言えば、それは恐怖ではなく焦燥だったのだろう。もう二度と「こども」には戻れないという不可逆性は、こどもという存在が孕む夢や想像力に、現実的な輪郭を刻みつつあった。砂時計のように静かな喪失感を記録として残すために、私はいくつかの作品を作った。「メランコリックナインティーン」という楽曲は、聴き返せないほど拙くて恥ずかしいが、その恥ずかしさを真空パックに保存したという一点のみについては、当時の自分に拍手を送りたい。
 そしてこの焦燥が、私の向こう十年の人生に多大な影響を与えることとなる。

 二十二歳の年、大学四年生の春。私は就活をしていなかった。
 大学三年生の秋頃には、私は同じ大学の院に進学する意思を固めていた。院進したうえでタイに留学し、タイ語を学ぶのではなくタイ語で学びたい。そんなご立派な理由を並べていた。  
 それは全くの嘘ではないが、建前の割合は大きかった。本音を言えば、このまま社会人になることへの蟠りがあった。青き春が雨雲に覆われていくような感覚に怯えて、私は雨雲から必死に逃げた。
 かくしていわゆるモラトリアムに縋った私は、同期が就職活動に勤しんでいる中、これまで通りサークル活動に打ち込んだり、オリジナル曲を制作したりと、「今」を謳歌していた。もちろん院進する以上、卒業論文にも真摯に取り組んだ。大学院入試としての面接では卒業論文の内容について質疑応答があり、その後無事院進が決まった。高校で文系を選択した時点では、大学卒業後は就職し、その企業で働き続けるのだろうとなんとなく想像していたが、自分がその道を選ばないとは思いもしなかった。
 これが一つ目のターニングポイントとなる。もちろんこの決断に後悔はしていないけれど、ある意味自分の人生がはちゃめちゃになったきっかけでもあるとは思う。

 二十三歳の年、私は大学院修士課程に進学した。ゼミの倫子先生はころころと笑う可愛らしい一面を持ちつつ、ゼミ生の研究に対しては的確な助言を下さる素晴らしい先生だった。礼節を欠くこと以外は基本的に受け入れてくれるような懐の広さをお持ちで、「三十歳までは遠回りに見える道も結局近道」という金言を与えてくれた先生でもあった。
 そんな倫子先生が、一度だけ私の申し出に難色を示したことがあった。修士一年生も終盤となった一月頃、来年度は休学して一年間タイに行きたい、と先生に相談したのである。大学院在学中に留学してみたいな、とはふわりと思っていたものの、具体的に学びたい内容や留学したい大学があるわけではなかったし、そうかといってこのままいけば、やはり就活を始めることになる。留学にも就活にも踏ん切りがつかず、脳内に暗雲が垂れ込めていた私は、とにかく日本を出てタイに行くしかない、という思考に至った。向こうに行けば何かやることが見つかるかもしれない、というなかなかの無計画さだった。
 さすがの倫子先生も、先が見えないまま一年間もアカデミックの世界から離れることは良しとせず、同僚であるタイ人のコーサナー先生に私の話をしてくださった。すると、なんと渡りに船、翌年度から大学院留学を受け入れるところがあるから行ってみないか、とコーサナー先生側から打診を受けたのである。もちろん私は快諾し、翌年度の夏からタイの大学院(研究所)に留学することが決まった。私はつくづく運の良さだけで生きているところがある。

 二十四歳の八月、私はタイに渡った。留学先のキャンパスはバンコクの隣県にあり、都会と田舎の境目のような場所で海外一人暮らしが始まった。タイではだいたい六月から十月は雨季にあたるため、夕方になるとしょっちゅう激しいスコールが降り、一時間ほどで嘘のように雨が上がっていた。
 私の留学先はアジアの言語や文化を対象とした研究所だった。クラスメイトは十人ほどで、多くはタイ人だったが、中国からの留学生もいた。もちろん日本人の留学生は自分一人という中、私は半年の間留学生活を送ることとなる。
 授業についていくのは本当に大変だった。「タイ語を学ぶのではなくタイ語で学びたい」などと言っておきながら、生のタイ語はスピードが速く、聞き取れない部分も多かった。その状態でタイの少数民族の話やタイ文字の進化過程の話が続くので、正直ちんぷんかんぷんなことも珍しくなかった。
 授業が終わり家に帰ると、毎日ベッドに倒れ込んでいた。言っていることを理解しようとして常に脳がフル回転しているので、一人になった瞬間に疲労の波が押し寄せてくるのである。あんなに日本で勉強したのにこの体たらくか、というショックが、さらに強く私をベッドに押さえつけた。
 でもいちばんショックだったのはそこではない。午前中の授業が終わると、私を含めクラスメイトは連れ立って学食でお昼を食べていた。私はテーブルの隅っこで、話に乗り切れないまま昼食で口を満たしていた。海外で人間関係を築くのは難しいのだと、そのとき強烈に思い知らされた。そもそも日本でも私は、別に友達作りが得意というわけではない。ただでさえ心の壁がある状況でさらに言葉の壁が聳え立っていれば、その二つを打ち破るには並大抵のエネルギーでは及ばなかった。
 就職を先延ばしにするような自分は日本に向いていない一方、海外なら向いていると思っていた。でも現実は違った。海外生活に明確に挫折した頃、雨季は終わり乾季に差し掛かっていた。
 かくして半年の留学を経て、私は帰国した。この留学は、海外生活への曖昧な憧れが消え去ったという意味で、二つ目のターニングポイントとなった。

 二十五歳の年、私は二月頃から本格的に就活を始めた。就活に便利だからという理由で、帰国後は京王線沿いのアパートに住むことにした。日本で働くというイメージが、ようやく自分の中で具体的な形状を持ったのである。
 いざ就活を始めてみると、かつてはあんなに忌避していたのに、思いの外適応できて拍子抜けした。もちろん失敗したエントリーシートや面接も数知れないが、面接官との相性が良ければ志望理由や学生時代の活動も意外と話すことができた。企業の裏側を垣間見られたり、普段行かないような街に行けたりするのも、ある種就活ならではのおもしろさだと感じていた。
 その結果、有難いことに複数の企業から内々定を頂くことができた。自動車メーカー、コンドームメーカー、観光系の企業という選択肢の中で、私は観光系の企業を選んだ。そこは狭き門だという事前情報があり、まさか内々定という結果になるとは思ってもいなかったので、ほとんど迷わずその企業に決めた。
 かくして私は博士課程に進学することなく、ようやく就職することとなった。これが三つ目のターニングポイントとなり、かつて想像していた未来の軌道に戻ったかのように思えた。

 二十六歳の年、私は社会人になった。しかし世界は混沌としていた。私の世界だけではなく、本当に世界中が。忘れもしない、コロナ禍の濫觴である。
 一年目の職員たちは週に一、二回の通勤に制限され、それ以外はリモートワークという体制になった。通勤に時間を取られないのは良かったが、細かい質問を先輩に聞きづらいのは辛かった。気軽に外出もできず、友人との通話くらいしかストレス発散の手段がなかった。
 観光業界も致命的な打撃を受けた。特に私の入った企業はインバウンドの誘致を目指していたが、国境を閉ざされてしまっては為す術がない。海外に向けて日本の情報発信を続け、国内に海外の情報提供を行う以外に、できることはほとんどなかった。
 同期との関係性も築けないまま、グループの先輩方から様々な業務を教わる日々が続いた。グループには一人曲者がいて、正しいことしか言わず、周りと協調する気のない人だった。グループの他のメンバーは全員優秀で、曲者に対する視線は厳しかった。そんな今にも窒息しそうな空気の中で、私は日々働いていた。
 半年を過ぎた頃には、職場への抵抗感は揺るぎないものになってしまっていた。出勤日が嫌だった。曲者と話すのが嫌だった。毎日二時間の残業が嫌だった。何もできない自分が嫌だった。
 二年目も状況はあまり変わらなかった。新型コロナウイルスは引き続き蔓延していたが、出勤する日は前年に比べて増加した。朝八時台、雨の日の京王線は生乾きの服のようなとても不快な匂いがした。調布駅ではいつも満員の特急列車に乗り換えた。あまりに東京のサラリーマン過ぎて、笑いが込み上げてきそうになることもあった。それは塵のように積もった希死念慮から目を逸らす行為とも言えた。
 二年目も終わろうとしていた三月、突然異動の内示が出た。そこに喜びも悲しみもなかった。ただ、ここでの日々が終わるんだと思った。同じく三月、三年半交際した相手と別れたこともあり、様々なことが大きく動いていく感覚があった。
 そして三年目の四月。異動先にいた直属の先輩に理不尽な内容で叱責され、私はトイレの個室で泣いた。三度目にトイレに籠ったとき、自分の中でぷつん、と音がした。もう死のう、と思った。
 物理的に死ぬのは、家族や友人に迷惑がかかるのでやめた。だから社会から自分を抹消することにした。自殺すべきでないと正常な判断ができているうちに、働くのをやめよう。きっとこれはお告げなのだろう。
「ここはお前の居場所ではない」
 人は死ぬ、という普遍的な真理を、私はこのときひどく肉体的に実感した。一歳だろうと、二十七歳だろうと、百歳だろうと、死ぬときは死ぬ。死ぬこと自体はいいけれど、死後に重い後悔は携えたくないと思った。今死んだら何を後悔するだろうと考えた。いの一番に思い浮かんだのは、「日本一周をしていないこと」だった。日本中を隈なく巡ることは、私の少年時代からの夢だった。
 四月下旬、私は直属のマネージャーに六月で退職する意向を伝えた。ネガティブな理由のみだと引き留められかねないため、「予てから日本一周をしたいと考えていて、二十代の今が最後のチャンスだと思ったから」という理由を軸に据えた。マネージャーも若い頃に似たような経験をしていたことが幸いし、高い解像度で私の考えを理解してくださった。小さな会議室で私は号泣した。
 まさか自分が社会人から逸脱する人間になるとは思っていなかった。ただ、大学卒業後すぐに就職しないという選択をしていたことが、「仕事を辞めてもいいか」という思考を結果的に後押しした。
『三十歳までは遠回りに見える道も結局近道』 
 記憶の中に留めていたその声を、私は擦り切れるほど聴いた。日本一周の準備は順調に進んだ。
 そして六月、私は二年三か月勤めた職場を後にした。これが四つ目のターニングポイントとなり、私は社会から姿を消した。

 二十八歳から二十九歳まで、私は放浪していた。中古の軽バンで日本中の景勝地や歴史的建造物を巡り、ご当地グルメや秘境の温泉を味わい、夜になれば軽バンの中で眠った。毎日異なる場所で朝を迎える日々だった。
 一刻も早く旅を始めたかったので、退職した翌日の七月一日には東京のアパートを引き払い、購入したての軽バンで秋田の実家に帰った。持っていくものの選別や車内の環境整備を三日かけて行ったあと、休む間もなく私は出発した。退職から一週間も経っていなかった。
 最初に抱いたのは解放感だった。人々が労働に従事する中、私は自分の決めた旅程に従って、行きたい場所に行く。平日の昼間なんて大抵どこも空いている。行きたくない場所に行くために満員電車に体を捩じ込んでいた日々と決別できた喜びが、ゆっくりと体内に染み込んでいくのを感じていた。
 しばらくすると孤独感に襲われるようになった。こんなに素晴らしい景色を眺めているのに、こんなに美味しいグルメを味わっているのに、感動を共有できる相手はいない。土日の観光地は特に寂寥感を引き立たせた。これが社会から解放されたことの代償か、と思った。
 旅を始めて三か月経とうかという頃。旅慣れてきた流浪の民に、最大のピンチが襲いかかる。相棒として共にやってきた軽バンの故障である。悲鳴のような異音を上げながら走る相棒は、なんとか道の駅の駐車場に辿り着くと、そのまま動かなくなった。無理に動かそうとすると、焦げ臭い匂いが周辺に漂った。
 迫り来る絶望感を必死で押さえつけながら、修理工場を探しては電話をかけた。三度目の電話でようやく受入先は見つけたものの、先約があるため修理にはかなり時間がかかると言われた。時間も費用もどれくらいかかるかわからず、そもそも直るかどうかもわからない。移動手段と寝床を同時に失った私は、実家への帰省を余儀なくされた。

 実家での日々は、結果的に十分な休息期間となった。仕事も旅もしない、何もすることがない空白の時間。それは不本意ながら、とても貴重な時間だった。
 後日修理工場から電話がかかってきて、私は衝撃の事実を知らされた。実はあの軽バンはリコール対象だったこと。今回故障したのも、クラッチ内のベアリングというリコール対象の部品だったこと。そのため修理は無償で行うこと。一時は旅を諦めることすら覚悟したが、突然の不運を最大限に取り返すような幸運が舞い降りてきた。修理も一か月程度で終わるそうで、先の見えなかった実家暮らしにも目処が立った。
 実家で暮らしている間、高校時代の友人である高橋と話す機会があった。私が旅を始める少し前に高橋とは話したことがあり、高橋も「会社を辞めて自分のやりたいことがしたい」と話していた。
 実家でニート中の私に、高橋は「音楽とかの制作をする会社を立ち上げたい」と言った。「その会社の社長になってくれないか」と。突然の提案ではあったが、不思議と私はあまり驚かなかった。もちろん高橋の提案さえなければ、私は社長になろうという気などさらさらなかった。しかしそれを固辞したとて、旅を終えたあとの見通しは何一つ立っていない。海原に漂う私に「波」が迫っているのなら、それに乗ってみない手はないのではなかろうか。
 軽バンの修理は無事完了し、一か月の中断を経て再開することとなった。旅の傍ら、私は高橋と共に会社設立の準備を始めた。合同会社なら六万円と最低限の資本金があれば設立できるし、設立手続きもウェブサイトのステップに従っていけば思ったより円滑に進められる。そして法務局や税務署に必要書類を提出し、私は「旅する社長」になった。これが五つ目のターニングポイントとなり、私の人生はいよいよ混迷を極めていく。

 旅を始めてから一年が経過し、私は二十九歳になった。残すは北海道、そして離島。ここまで来たらどうしても旅を完遂したい、という緊張感を背負いつつ、私は夏の北海道を巡った。きちんと日本本土最東端の納沙布岬、最北端の宗谷岬を巡った。きちんと会社で受注した案件の進捗管理も行った。
 最後の離島は、真夏だと混み合ううえに猛暑が予想されるので、時期をずらして十月に巡ることにしていた。そうすると二か月ほど期間が空くので、旅費を稼ぐためにもそのまま北海道で短期のアルバイトを探した。少し手間取ったものの、運良く住み込みで働けるリゾートバイトが見つかり、有り難くそこにお世話になることにした。
 アルバイト先は北海道の最高峰・旭岳の中腹にあるホテルだった。旭岳は旭川から車で一時間ほどの場所にあり、山頂付近では常に白煙が上がっていた。シフトによっては出勤が午前六時と朝早いこともあったが、出勤直前に眺める明け方の旭岳は、つい見惚れてしまうほど蠱惑的ですらあった。仕事終わりにはホテル内にある源泉掛け流しの温泉に行き、宿泊客のいない湯船を独り占めすることもよくあった。
 日々の肉体労働はけっこうきつかったが、ホテルのすぐ隣にある綺麗な社員寮は家賃がかからず、労働二時間分程度の食事代で毎日二食付きだったため、旅に必要な資金は貯まった。そして二か月間のアルバイトを終え、十月がやって来た。
 最後の一か月、私は離島を巡った。日本の端っこを踏破したくて、最西端の与那国島と最南端の波照間島に行った。片道五時間のトレッキングを経て、屋久島の縄文杉を実際に見た。ずっと行きたかった二重カルデラの島・青ヶ島に行った。そしてフィナーレとして、フェリーで片道二十四時間かかる小笠原諸島に行き、マッコウクジラに出会った。
 一年四か月にわたる旅を顧みれば、軽バンの故障を始め、様々なトラブルはあった。しかし、地震などの天災や運転中の事故など、致命的なトラブルに遭うことはなかった。旅を諦めざるを得ない状況に陥ることが最大の懸念だったので、旅を終えて実家に帰ってきた瞬間に湧き上がってきたのは、旅が終わってしまったという虚無感ではなく、無事旅を終えられたという安堵感であった。
 実際、私が能登を訪れたたった半年後、あの元日の震災によって、輪島の朝市は焼け野原になった。

 二十九歳の私は、高橋と始めた小さな会社を経営しながら、実家で母と暮らしている。社長だから富豪、というのは全くの幻想で、正直生計を立てられるレベルではないため、家のすぐ近くにある日帰り温泉のフロントでアルバイトをしている。勤め始めて三か月後には、併設する旅館の宿泊客に対するチェックイン対応も任せてもらえるようになった。まるで社会復帰に向けたリハビリみたいだな、と噴き出しそうになるが、実際それは全く比喩ではなく、社会に再び参加していく道筋そのものであることに気付かされる。
 今、道の途中で立ち止まって振り返ると、ストップモーションアニメのようにたくさんの私が並んでいる。その表情を遡って眺めてみる。旅を無事終えられるか緊張する私。同僚の足を引っ張ることに怯える私。社会人になって自由を奪われることを拒否する私。そしてその最後尾で、二十歳を目前にした私が、「おとなになること」に目を背け、恐れていた。
 二十代の私は、恐怖に支配されていた。「二十代」をうまく使えなかったらどうしようかと焦燥し、院進・留学・就職・旅人・社長と、様々な自分に乗り込んで操縦した。常に視界は雨に煙り、目的地もわからないままとにかく足を前に運んでいた。
 私は再び正面に向き直る。目の前には三十代の一本道。自分のやりたいことはやり切ったから、眼前の風景は澄み渡っている。私は散々自分にばかり手を差し伸べてきたのだから、もう人に手を差し伸べることだってできるはず。私がこれからすべきことは、人の役に立つような、社会に貢献できるような行動を積み重ねることだと思う。
 青き春の後には朱き夏が来る。春と夏の間には長い雨が降る。梅雨はもうすぐ終わるらしい。


※個人名は仮名です。

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