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[演劇批評] 肉体の疲労/キャラクターの消費 (得地弘基「お布団」『破壊された女』)

一人芝居の『破壊された女』という「戯曲」はふたりの俳優(永瀬安美/村岡佳奈)によって「上演」される。同じ戯曲が再演されるごとに役者が異なるのは、至極当たり前のことだ。しかしこれは考えると不思議なことである。ここには「役者」と「役」はあらかじめ分節しうるという演劇の約束事が前提とされている。「役」という抽象的な人物(キャラクター)。彼/彼女は、肉体を持たない魂のみの存在であり、彼/彼女が息をできるのはフィクションという空間のみであり、フィクションが稼働するのは見られる/聞かれるときだけに限られている。そんな、見る/聞く人の想像の中だけでしか生きることのできない「役」が、すべからく人生を持ち、時間を抱え、その堆積が刻まれた肉体を有した、どうあがいても抽象的であることはできない「役者」によって演じられるとき、そこでは果たして何が起こっているのだろうか。
 

 
 『破壊された女』は3章で構成されている。「病人たちのキリスト」「存在細断刑」「それは鏡ではない/魂のない時代」。主な登場人物は〈私〉と〈女〉と〈彼女〉の3人だ。肉体を持った役者(永瀬安美/村岡佳奈)は、自分の胸に手を当てて「〈私〉は」と語る。その語りによって〈女〉と〈彼女〉の物語が語られる。しかし、自分の胸に手を当てて〈私〉と自身を呼称する役者は無論〈私〉ではない。よって、「〈彼女〉の物語」「〈女〉の物語」「〈私〉の物語」が重層するように語られることになる。「〈彼女〉の物語」「〈女〉の物語」は、〈私〉による語りによって。そして「〈私〉の物語」は、彼女が語るその有様自体によって。
 こうした重層的な物語を語る語り手が「ひとり」であること、この劇が一人芝居であることによって、複数の物語を受け入れる肉体は、酷使される。それは具体的な疲労となって、役者の表情に滲みだす。
 

 
「病人たちのキリスト」において語られるのは、〈彼女〉の物語だ。〈彼女〉は空の容器だ。〈彼女〉は何も感じることができない。なにもかもに飽きている。しかし唯一〈彼女〉が「生きる喜び」を見出すことができるのは、人の絶望を感じる時だ。そして〈彼女〉は他者を絶望に追いやることを通して、自身の生を充足させる。しかし絶望の生産にも飽きが来る。そして、与える絶望の質と量はますます拡大していき、次第に〈彼女〉の思想に共感した〈使徒〉が〈彼女〉のもとに集まり、〈彼女〉の絶望を代理遂行する。そうやって世界は荒廃した。
そこに〈勇者〉が現れた。〈勇者〉によって〈彼女〉は殺される。しかし「悪」を必要とする世界によって、〈彼女〉はフィクションという形で復活し、またも殺される。そうして、何度も何度も、フィクションに召喚されることで〈彼女〉は殺され続ける。存在は、細断され続ける。
そんな〈彼女〉を信仰しているのが〈女〉であり、「存在細断刑」では、〈私〉の語りを不意に中断するように〈女〉がバイトをする時の仕草が介入し、〈女〉と〈私〉は役者の肉体の中で衝突する。そして俳優の疲労が、「存在細断刑」の交錯する〈女〉と〈私〉の召喚の中で蓄積され、俳優の表情は上気しているように見える。当たり前の話だ。人間は肉体を持つ。ということは、ノンストップで語り続けながら、同時に常に身体による所作を繰り返しつづければ息があがる(「存在細断刑」ではノンストップの語りと並行して反復的な所作がひたすら繰り返される)。これを「オプショナルなこと」として考えた時、俳優の疲労は、劇にとって不要なものとなる。そうして俳優の疲労を不要なものとしたとき、その論理をずっと先に引き延ばして行けば、疲労のない存在=ロボット/AIによる演劇が想定されるだろう。役を綺麗に遂行するためだけが目的なのでれば、役者の肉体の疲労は邪魔者になるしかない。
 
しかしこの演劇ではこの肉体の疲労を劇の構造に欠かせない要素にしている。それはなぜか。
 
『破壊された女』は「キャラクター」の物語ともいえる。〈彼女〉はキャラクターであり、存在していない。存在しているからそこに権利が生まれるのであり、存在していなければ権利は存在しない。権利が存在しない何かには、法を行使する理由はない。よってキャラクターは「語り」によって、存在を裁断され続ける。語ることとは暴力である。このシンプルな命題が『破壊された女』に貫かれている。存在を裁断され続けるキャラクターは、その裁断されっぷりを一人芝居という形式へと受肉される。複数の語りが同居する「俳優」。複数のキャラクターが同居する「役者」。
しかしなぜそんなことが可能なのか。一人の中に複数のキャラクターを同居させることが。
キャラクターは肉体を持たないからだ。キャラクターが肉体を持つためには、依り代が必要とされる。キャラクターは肉体を持たない。よってキャラクターは「ひとり」に極限される必要はない。ひとりの中に複数のキャラクターが存在することは、キャラクターにとっては至極当然のことだ。なぜなら繰り返すが、キャラクターは肉体を持たないからだ。
しかしここで興味深いのは、『破壊された女』ではキャラクターを「消耗する存在」として描いている点だろう。キャラクターは肉体を持たないがゆえに疲労を感じることはないが、しかし、何度も存在を裁断されることで存在が摩耗していく。「病人たちのキリスト」から「存在細断刑」で語られた〈彼女〉の反復複製=反復フィクション化(そしてメタフィクション)には、こうして摩耗していく〈彼女〉の存在への、ともすれば素朴な愛とでも呼べるようなものも感じられる。『破壊された女』は、キャラクターを、人間と同等の権利を持たない、虐げられて当然の存在としてではなく、人間と同等の存在として定立させようとする、素朴な意志がみなぎっている。
キャラクターは存在しないとして、しかし、キャラクターではない存在とはなにか。わたしたちは記憶によって、ある他者を認識する。人それぞれが人それぞれの記憶の合成の方法によって、他者を認識するのだから、当然、他者はそれぞれの記憶の合成物であり、「客観的なその人」ではない。つまりわたしたちは、つねにすでに、キャラクター的に世界を眺め、世界を生きているともいえるのだ。『破壊された女』は、シンプルにいえば、リアル/フィクションの境界を越えて、リアルこそフィクションであり、フィクションにリアルがある、このような私たちの世界の実相を捉えようとした作品だといえるだろう。
キャラクターの存在の定立もこの文脈に位置づけられる。だからこそ「消耗する存在」としてキャラクターをとらえるのだ。しかしキャラクターは疲労しない。疲労するとしても、それはフィクション内において「彼は疲労していた」といった文によって立ち上げられる疲労でしかないだろう。キャラクター自体が疲労することはない。キャラクターは「疲労させられる」のだ。キャラクターは、「疲労」という文を与えられることで疲労する。
しかし演劇においては、キャラクターつまり「役」は、役者という肉体を持った存在によって演じられる。肉体を持った役者は、肉体を持つがゆえに疲労する。そう、この役者によって、キャラクターの「存在の消耗」が、「肉体の疲労」として現象するのだ。ここに、『破壊された女』が一人芝居であることの構造的な理由がある。一人芝居であることは、そもそも、演劇が「役と役者が分割されるる約束事」を前提としている、その前提を暴く。そしてそのことによって、無数の役=キャラクターが上演/現象される「場所」として、役者を存在させる。しかし肉体には疲労という人間的条件が含まれるがゆえに、役者には無限の上演は不可能であり、役者は疲労し、その疲労の様が、役者の肉体から否応もなく立ち上る。
 

 
役者は疲労する。役は疲労しない。しかし役は消耗される。消費される。使い古される。それと本人は気づかないままで。そうして忘れられ、時に思い出され別の役に変化し、また消費され、使い古される。そうして私たちはわたしたち自身を消費しているのではないだろうか。キャラクターとは私たち自身のことなのだから。だからこそ、キャラクターの消費に、キャラクターの存在のただなかで抵抗するために、「役者」が召喚される。疲労をしらない役ではなく、否応なく疲労する役者を。そして役者を、無数の役の殺到によって破壊し、「破壊された〈女〉」をそのことによって救い出すために。

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