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[お笑い]古賀的「不気味さ」の侵犯(「古賀」 ビジュアルバム)

 ビジュアルバムの「古賀」の笑いは板尾創路演じる古賀の不気味さが与える緊張が不意に緩む瞬間にもたらされる。
 そもそも笑いとは、俎上にあげられた何らかのイメージに対して別様のイメージを塗布することによって生まれる。作品が視聴者に与えたイメージ(あるいはすでに視聴者が持っているイメージ)が、「共感とワンダー」(穂村弘)のちょうどいい塩梅の別様のイメージによって多重化された時に人は笑う。共感できすぎたらそれは「当たり前やん」となってしまうし、あまりにワンダーによりすぎると「ようわからへん」となるからその塩梅が芸の見せ所になる。そしてイメージの塗布を何重にも変奏する、その積み重ねによるイメージの増幅が笑いを加速する。このイメージの塗布の営みこそがツッコミと呼ばれる。しかし「古賀」は板尾創路を古賀として登場させることにより、「共感とワンダー」という原理を無視したところで笑いを成立させることができている。しかしそれはなぜか。古賀という存在が与える「不気味さ」を手がかりとして考えみたい。
 古賀の「不気味さ」はフロイト『不気味なもの』で描かれる「不気味なもの」と奇妙に一致する。フロイトは「不気味なもの」が「人々が熟知していないものを見出すような状況」によって生まれるものではないと考えた。フロイトはドイツ語の語彙の系譜をたどり、「不気味なもの」(ウンハイムリッヒ)が、それと反対の意味を持つと考えられるはずの「馴染みなもの」(ハイムリッヒ)と同様の意味で用いられることを指摘し、抑圧されていた「馴染みなもの」(ハイムリッヒ)が回帰してきたときにそれが「不気味なもの」として現れると論じた。蝋人形や幽霊が恐ろしいのは、人間という「馴染みなもの」と重ねられるからだし、例えば巨大なモンスターには「不気味さ」よりも「恐ろしさ」を感じるだろう。
 古賀と松本・東野・今田の二つ軸の対話と、その齟齬によって進行する「古賀」において、古賀は他3人にとって友達なのだから、いわば馴染みの存在である。そんな友達である4人が一緒にスカイダイビングをする。しかし古賀一人が行方不明になってしまい、松本・東野・今田の3人は、その状況を古賀の親に報告するために古賀家を訪問することになるが、そこで古賀は平然と姿を現す。松本・東野・今田は勝手に帰っている古賀に対してはじめは不満を現すが、次第に不満の矛先を見失ってしまう。松本は言う。「腹立つとかそんなんじゃないねん。なんかちょっとブルーっていうか、なんやったん、っていう」。松本・東野・今田にとって馴染みの存在であった古賀が彼らの理屈に反する行為を行い「不気味な存在」となってしまったがゆえに、古賀は怒りを向ける対象ではなくなってしまったのだ。
 古賀の立ち振る舞い方もまた古賀の「不気味さ」を演出する。古賀はあたかも普通の人のような話し方をする。前半、スカイダイビングをする前のヘリコプター機内でいかにもホモソーシャルな会話を繰り広げている松本・東野・今田に話を振られた古賀はあたかもその3人のノリに同調しているかのように爽やかな笑顔で返答する。後半の古賀家でも、その行為の異様さに反して古賀の語り口はいたって普通だ。視聴者にとっても馴染みのあるような
語り口で異様なことを語る古賀がそこで描かれている。
 古賀は松本・東野・今田に対して、また視聴者に対しても、ある種の馴染みな印象を前もって与えているがゆえに、不気味な存在へとそのイメージを変貌させることができるのだ。もしもその馴染みな印象がなければ、古賀はただ「変な奴」として他者化され、理解の範疇の外に放擲されるほかないだろう。
 しかしこれだけならただ古賀が不気味な存在であることしか確認できていない。なぜそんな不気味な存在としての古賀が笑いを惹起することができているのだろうか。そしてその笑いはなにを生み出しうるのだろうか。
「共感とワンダー」の塩梅によってイメージを多重化することによって笑いは生まれると書いたが、不気味な存在としての古賀が与えるのは「ワンダー」だけだ。にもかかわらずそこには笑いが生まれている。ただ不気味なだけで、不気味であることの「ワンダー」だけで、なぜ笑いが生じるのだろうか。
 幾つか笑いを生じさせるうる箇所を挙げてみよう。
 スカイダイビングの後にすぐに帰った理由を問われた古賀はこう答える。「いや、もう別に、飛んだし、帰ろう思って」。そのあとにさらに理由を問われた古賀は「いや着いて、あとでなんか、なあ、話しするとも...まあ言うといてくれたらおったけど」と答え、いったん古賀がはけた後に松本は「今からスカイダイビングするのに今から何時に喫茶店行こうかとかそんな言えへんやんけ」と愚痴をこぼす。
 こうしたところに笑ってしまうわけだが、ここでは、いままで「不気味な存在」である古賀がもたらしていた非日常的な緊張が、日常の介入によって緩むことで笑いが生じている。「いや、もう別に、飛んだし、帰ろう思って」と古賀が口にした時、空から降り立った古賀が帰ろうとする平凡な姿が想起され、また、「今からスカイダイビングするのに今から何時に喫茶店行こうかとかそんな言えへんやんけ」と松本が呟くとき、スカイダイビングをする前に、あたかもスカイダイビングが日常的な営みであるかのように、その後の喫茶店に行く約束をしている4人の姿が想起される。古賀の「不気味さ」がもたらす非日常性が、そんな平凡な日常の想起によって緩和され、そこで笑いが生まれる。そこで非日常に対置される日常が、あくまで古賀の日常であることに気づく。つまり、古賀は自らの不気味さによって作り出した非日常の緊張を、古賀的日常性によって上塗りし、緩和することで笑いを生み出しているのだ。松本・東野・今田が混乱の渦中にあるときに母親から「あんたご飯の途中やでー」と促された古賀が3人を置いて家に中に戻り、もう一度姿を現した古賀が「いや飯食うててん」と口にする、そのくだりにおいて、自らの作り出した非日常を古賀的日常によって上塗りし笑いを生み出す古賀の特質が如実に表現される。
 この古賀的日常の侵犯よる笑いは、松本・東野・今田の3人のホモソーシャルな空気を前提にしてこそ活きるものだ。3人の内輪的で閉鎖的な会話が前半において示されたからこそ、その閉域を食い破る存在として不気味な存在・古賀が現れうるのだ。
 ツッコミが他者の否定だとはよく言われることだ。人を馬鹿にすることで笑いが生じる。
 しかし「古賀」において笑いは否定によっては生み出されていない。古賀的日常の侵犯によって生み出される「古賀」における笑いは、ホモソーシャル的な閉じた共同体を攪乱する。「共感」による笑いが差別と歩調をそろえることがあるのに対して、「ワンダー」のみによって生み出される「古賀」の笑いは、いわば反ホモソーシャル的で反共同体的とも考えられるだろう。
 フロイトの「不気味なもの」はただ「馴染みなもの」が変容しただけで現れるものではない。「馴染みなもの」はまず抑圧されている必要がある。抑圧されたものが回帰するからこそ「馴染みなもの」は「不気味なもの」へと変容する。では「古賀」において抑圧されたものとはなんのだろうか。それはホモソーシャル性が内在する「無理」ではないだろうか。「もうちょっとこれ無理やわ」の「無理」。閉塞的で同調的なホモソーシャルな共同体の中で無意識の内に我慢していること。そうした「無理」が古賀において解放される、抑圧された「無理」が古賀的日常によって緩和される。古賀はその無表情によってマイペースに日常を延長させ「無理」を無化する。古賀はいわば共同体を無化する存在、反共同体的存在である。
 ラスト、パンアップされたカメラが、電話でスキューバダイビングに誘われている古賀を映し出す―「スキューバ?おー行く行く行く。いつ?うん、行けるよ。うん、全然やるよそんなん」。果たして古賀は何を「やる」のか。古賀が古賀的日常の侵犯によって閉じた共同体を破壊していく未来が見えるようだ。あるいは、古賀とスキューバダイビングをする友達たちは、古賀的な反共同体に属しているのだろうか。

*参考文献
フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』、中山元訳、光文社古典新訳文庫、所収「不気味なもの」

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