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[MV批評] 『Ditto』の存在論 彼女たちは存在する

NewJeans (뉴진스) 'Ditto' Official MV(sideA)
https://www.youtube.com/watch?v=pSUydWEqKwE&list=LL&index=2

NewJeans 'Ditto' Official MV (side B)
https://www.youtube.com/watch?v=Oh1BYm9UfoE&list=LL&index=1





 彼女たちは存在する。その存在理由(≠存在証明)に向かってこの文は綴られる。



 撮影するとはどのような営みなのだろう。
 撮影を2つの行為に区分けしてみよう。カメラを向けるということ、そして、記録されるということ。
 カメラを向けるということ。つまりひとはカメラの眼になって対象と向かい合う。カメラがあることで、その眼の助けを借りることによって、対象とともにある現在により接近することができる。そのときカメラは、世界と交流するための道具となっているだろう。カメラがなければなしえない交流を、カメラは可能にしてくれる。
 記録されるということ。記録するということは、記録された現在が、現在を「超過する」ということだ。現在はただの現在ではなくなる。現在は二重化される。いやむしろ、記録された映像が再生される度ごとに超過しつづけるのだから、現在は、「現在からみた過去」として何度でも蘇る。カメラを向けた撮影者の願望とはそれは無関係であり、撮影されたということはこうした再生の可能性に開かれることに直結する。もしもその人が自分だけのものだと思って撮影したとしても、撮影された映像を自分だけの記録として守り続けることは、原理的には不可能である。記録されるということ、それは、撮影者‐被写体の円環の外部を必ず招き寄せてしまうのだ。
 意志と非意志という側面から考えることもできるだろう。カメラを向けるという行為は、撮影者の意志が濃密に宿った営みだが、記録されるという結果は、撮影者の意志に反して無数の見知らぬ他者を招き寄せてしまう。それは撮影者の意志によっては制御できない運命にあるのだ。そもそも撮影という行為が、現実をカメラによって転写する行為である以上、撮影者の意志の外部にあるなにかを撮影はとらえてしまう。だから撮影という行為は、現在(撮られたものの意志からの離脱)と未来(記録されたものの再生可能性)の両面において、撮影者の意志を欠損させる行為となる運命にある。むしろそれが撮影の条件だともいえるだろう。



 『Ditto』論の冒頭になぜ撮影という行為についての話していると思われるかもしれない。それは、Newjeansの『Ditto』のMVが、ここまで書いてきたような、撮影するという行為にまつわるとても厄介で、だからこそ重要な問題を招き寄せる構造を有した映像だからだ。

1.『Ditto』のMV構造について



 まずは『Ditto』のMV構造について確認していこう。このMVはSIDE-AとSIDE-Bがあり、同じ曲が二つのMVで撮られている。
 まずはSIDE-A。ある女性が箱の中からビデオカセットを取り出しビデオデッキに挿入すると、スタンダードサイズの映像の画面に、図書館で本を読む女性(ヘリン)が写される。しばらくNewjeansの学校生活が写され図書館でのダンスシーンに差し掛かった時、スタンダードサイズからフルサイズに画面が転換、この時初めて撮影者が写されることで、このMVがふたつの映像によって構成されていることが判明する。

  • フィクション内カメラ(=撮影者ヒスによるビデオカメラ。以降、内部カメラ)による映像

  • フィクション外カメラ(=以降、外部カメラ)による映像

 以降、彼女たちの学校風景/ダンス風景が、内部カメラと外部カメラによって入り乱れる形で描かれることになる。撮影者はヒスと呼ばれる人物で、被写体は〈彼女たち〉。このMVというフィクション内においてはNewjeensはNewjeansとしてではなく、「ヒスに撮影される被写体」として登場するため今後はNewjeansではなく〈彼女たち〉と呼ぶことにする。このMVのフィクション空間においてあくまでNewjeansはヒスに撮影される〈彼女たち〉なのだ。
 しかし「Ditto」の楽曲が終わり、雪原の中で鹿に見つめられ、見つめるヒスが写される幻想的なシーンにつづいて、部屋のソファから起きるヒスが登場したのち、目の前には誰もいない虚空に向けてカメラを向けるヒソが描かれる。つまり、ヒスは〈彼女たち〉の幻想を撮っていたのではないかと疑わせる、外部カメラによる映像が提示されるのだ。
 そしてSIDE-B。描かれる情景は曲が進行していくごとにSIDE-Aとの微妙な、しかし決定的な変化を描いていく。まずは前半、〈彼女たち〉が内部カメラによって写されたカットの次に同ポジションで〈彼女たち〉いないカットが繋がれるなど、〈彼女たち〉の不在の印象をより強調する構成になっている。そして例えばSIDE-Aでは一緒に雨の中を〈彼女たち〉と走ったシーンは、ヒスが〈彼女たち〉を置いてひとり去っていくシーンとして反復されたり、屋上からビデオカメラを落とすなど、明白に〈彼女たち〉との決別を暗示する展開へとなだれ込み、そして、MVはSIDE-Aの冒頭のカットに戻る。この時、はじめて視聴者はビデオデッキにビデオを入れた人物は、大人になったヒスであることがわかる。そしてTVに写されたビデオを見つめるヒスが、ドアが開く音に振り向くと、高校生の〈彼女たち〉がヒスとともに部屋に雪崩れ込み、大人のヒスの姿は消える。

2.決定不可能性



 こうしてふたつのMVのあらすじを追っていくと、〈彼女たち〉は存在しないということが明白のように思われる。実際ネットにころがる数多の考察においても、あくまで〈彼女たち〉はヒスが作り出した幻像で、幻像=アイドルからの決別を決意するファンの複雑な心理を描いたとする、あくまで〈彼女たち〉は存在しないという前提の見解が多く占められている。
 しかし〈彼女たち〉は本当に存在しなかったのだろうか。すべてヒスの幻像だったのだろうか。しかしこのMVにおいて最も心を打たれるのが〈彼女たち〉の実在感、「彼女たちはたしかにかつてそこにいた」という実在感であるのだから、あくまでこの再生‐視聴体験における実在感を真に受けて、〈彼女たち〉の存在理由にむけて筆を進めたい。
 強くいえば、〈彼女たち〉を幻像だとする見方は、事実〈彼女たち〉の実在感を感じさせる再生‐視聴体験と矛盾をきたしてしまうのだ。もしも〈彼女たち〉が幻像なのだとしたら、再生‐視聴体験における実在感とはヒスの決別のための道具になってしまいかねない。それは再生‐視聴体験を、〈彼女たち〉は存在しないという物語によって消去していることではないだろうか。現実/幻像の排他的な関係の基づく、穏当な作品鑑賞へと収束する再生‐視聴体験へと、わたしたちの再生‐視聴体験を縮減してしまっているのではないだろうか。では字義通り、〈彼女たち〉を存在たらしめるにはどうしたらよいのだろうか。
 そもそもこのMVは「〈彼女たち〉が本当は存在しない」という明らかに明白であるように思われる命題自体を否定しているカットも含まれる。たとえば、SIDE-Bのラスト、高校自体にビデオデッキを捨てた彼女は幻像=〈彼女たち〉と決別したはずなのにもかかわらず、ビデオにはたしかに〈彼女たち〉の姿が映っているのだ。もちろんギプスに描かれた文字が消えているなど、明らかに〈彼女たち〉が存在しないとする証拠もある。
 しかしだからといって、「〈彼女たち〉が存在しないこと」を真理としては提示していないし、そうして残された決定不可能性の余白こそが、この作品が数多の考察を産む理由であり、そこに〈彼女たち〉の実在感の秘密も潜んでいるのではないだろうか。

3.共謀と裏切り



 「Ditto」はさまざまな位相の世界を交差させる形で成り立っているMVだ。ここで一度、「Ditto」における世界の位相を種別化してみようと思う。まずは以下の3つの位相は明白に区分けできるように思われる。


A:ビデオデッキにビデオを挿入する現在(2022)〔外部カメラ〕
B:「ビデオに記録された世界」の世界(1998-1998)〔外部カメラ〕[EX.ビデオを撮っているヒスを撮るカメラ等]
B’:ビデオに記録された世界(1998-1998)〔内部カメラ〕
そして〈彼女たち〉が幻像であると示唆する場面以降、上記の種別は以下のように分身する。
A:ビデオデッキにビデオを挿入する現在(2022)〔外部カメラ〕
B:「ビデオデッキに記録された世界」の世界(1998-1998)〔外部カメラ〕
★B+:Bの世界の幻ver(1998-1998)〔外部カメラ〕
B’:ビデオデッキに記録された世界(1998-1998)〔内部カメラ〕
★B’+:B’の世界の幻ver(1998-1998)〔内部カメラ〕


 つまりこのMVは、「ABB’」の世界を描くことで〈彼女たち〉の存在を提示し、つぎに、「ABB’」に幻をだぶらせることで(「ABB+B’B’+」)最初に提示した世界は存在しないもの、であるかのように描いている。この時、「ABB’」の世界と〈彼女たち〉が魅力的に描かれているほど、後者の展開の悲劇性、哀切さが強調される構成になっているといえるだろう。
注意したいのは、こうした〈「ABB’」→「ABB+B’B’+」〉の世界転換には、わたしたちはなぜフィクションに心を動かすのかの理由が含まれている点だ。それは一言で言うと「約束」である。「ABB’」において視聴者は「こういう世界がありますよ」とMVによって「約束」を結ぶことになる。〈彼女たち〉は存在しているとの「約束」が結ばれる。言い換えると、「嘘だけど、それを嘘と言うのは無しにしその世界を信じよう」という作品‐視聴者の「共謀」が成立する。
 この「共謀」によって成立した世界を幻像化し裏切ることによって、このMVは成立している。ビデオカメラによって撮られた映像の「生っぽさ」が、最初に「約束された世界」の現実性を担保することで、「共謀と裏切りの構造」をより効果的にしているともいえるだろう。
 こうした世界の位相の検討は、むしろ〈彼女たち〉の非存在性を証立てているように思われるかもしれない。そこで次に「編集」という視点で検討してみたい。このMVが非常に複雑なA~B'+の交錯、つまりAとBの世界を粉々にしてそれを細かく「編集」することによって成り立っているMVである。「編集」は〈彼女たち〉の存在を証してくれる助けになるのだろうか。


4.決別の儀としての編集



 編集は編集する主体をかならず要請する。誰が世界を並べ直しているのか。「編集者」によって、世界はいかようにでも「編集者」の思うような世界にすることができてしまうことは、インターネット以降の世界においてはむしろ周知のことだろう。
 ではこのMVにおける「編集者」とはどこにいるのだろうか。内部カメラが存在することによって、「編集」の位相もまた以下のように種別化されることになるだろう。

  • 内部カメラ間編集

  • 外部カメラ間編集

  • 内部カメラー外部カメラ間編集

 そしてそれに従って「編集者」はそれぞれ以下のようになりうるだろう。

  • 内部カメラ間編集:ヒス(ディレクター)

  • 外部カメラ間編集:ディレクター

  • 内部カメラー外部カメラ間編集:ディレクター

 内部カメラの映像は作品冒頭とラストで登場するビデオとして編集されているのだから、内部カメラ間の編集はヒスが行っているとの解釈ができる。もちろん、ヒスは虚構的な人物なわけで、内部カメラ間編集にディレクターがかかわっている、つまりフィクション外の存在が介入していると考えることもできるだろう。しかし編集されたビデオを再生するという場面が登場することから、そこには必ず編集する人物が存在する。その人物をヒスと考えることはあながち的外れでもないだろう。
 そのとき、SIDE-Bの冒頭、内部カメラによって撮られた〈彼女たち〉の姿が映されるカットに続く同ポジションで〈彼女たち〉がいないカットのモンタージュ(この編集こそこのMVにおいて最も〈彼女たち〉の非存在の証拠とされかねない)は、つぎのように理解できるようになる。これはヒソが「編集」したのだ。素材としては、〈彼女たち〉が撮られたカット/撮られていないカットの両方があり、そのふたつのカットを並べている。ではなぜヒソはそのようなことをするのか。ヒスは〈彼女たち〉と決別したいからだ。だからあえてこのような「編集」によって〈彼女たち〉は存在しないというフィクションを作り出した。
 このように理解するとき、前節で述べた「共謀と裏切りの構造」が「Ditto」の一面でしかなかったことがわかる。かつ、こうした理解は「編集」の二重性によってなされることに注目する必要がある。このMVにおいて「編集」はディレクターとヒスによって担われている。「共謀と裏切りの構造」とはいわばディレクターによって行われた「編集」によるフィクションである。しかしヒスの「編集」とは、あるいはディレクター自体気づいていないかもしれない、フィクション内人物であるヒスによる、「決別の儀としての編集」なのだ。

5.視聴/再生



 ここからは一転して、「視線」を軸にして〈彼女たち〉の存在理由に迫っていきたい。「Ditto」は数多の視線の交錯の劇として成り立っているからだ。そして先に結論を述べれば、視線こそが存在を存在たらしめるのだ。存在があり、視線があるのではない。視線があり、存在があるのだ。
 ここでやはり注目すべきは、ヒスはビデオカメラを通してのみ〈彼女たち〉を見ているという点だろう。ヒスが見ているのは〈彼女たち〉そのものではなく、ビデオカメラのモニターに映された〈彼女たち〉なのだ。当然、これはモニターを通して触れ合うことになるファン-アイドルのアナロジーとしても解釈可能だろう。しかしここでは、「モニター」ではなく「撮影という行為」に焦点を当てたい。冒頭に述べたように、撮影とは、映される対象と関わる方法である。ヒスは〈彼女たち〉とかかわるために、その唯一の方法としてのビデオカメラを用いて、撮影をする。
 そして〈彼女たち〉もまたヒスを見つめる。冒頭〈彼女たち〉のうちのひとり(ヘヨン)がヒスに「ヒス ヒスそれは違うよ!」と語りかけるカットに象徴されるように、〈彼女たち〉はヒスを見つめ、語りかける。このことからもすでに、ファン‐アイドルのアナロジーとしてビデオカメラを用いているとは解釈できなくなる。ファン‐アイドル関係は一方通行の関係だからだ。しかし〈彼女たち〉が語りかけているのだから、ヒスと〈彼女たち〉の関係は一方通行の関係ではない。ヒスは〈彼女たち〉に見つめられ、語りかけられることで、〈彼女たち〉に見つめられる存在=ヒスとなる。〈彼女たち〉がヒスを見つめるのは、ヒスが〈彼女たち〉を見つめたからである。双方向的な視線の交錯によって、互いが互いを存在させる。
 このMVにおいてヒスの表情が写されていないことも重要だ。ヒスの表情は目元や口元をクローズアップされたり、ビデオカメラのモニターによって遮られたりすることで、常に表情は隠されている。空隙のある主体としてのヒス。しかしにもかかわらず、先に述べたように〈彼女たち〉に見つめられることで、ヒスは存在している。この矛盾について、撮影のもう一方の側面である記録性に軸足を移すことで、一つの見通しを得ることができる。冒頭で触れたように、撮影によって撮られた映像は、撮影した本人の意志に反して、無数の再生可能性に開かれてしまうのだ。視聴者は、ヒスのビデオカメラの眼差しを通して〈彼女たち〉とヒスの相互的な存在の生成のプロセスに疑似的に関与することになるのだ。
 作品のラスト、ヒスが昔のビデオをTVで見る場面は、そのことを物語っている。現在のヒスが過去のヒスの眼差しを借りることによって、〈彼女たち〉を存在させること。そのことによって、〈彼女たち〉は現在のヒスのいる部屋に雪崩れ込むことができたのだ。眼差しが存在を存在させる。
 そして現在のヒスがMVを再生‐視聴する視聴者に重ねられるとき、視聴者が再生‐視聴する、そのたびごとに、現実/幻像の排他的関係の外で、〈彼女たち〉は過去のヒスという依り代を介した視聴者によって、何度も〈再生〉するのだ。
 つまりここに次の視線の関係が生まれる。

  • 視聴者(現在×∞)→ビデオ(一回性の過去)

 再生‐視聴は原理上無限に行われるが、ビデオは一回性の過去にすぎない。しかし同じ過去が、無限の再生‐視聴によって、いつでもどこでもなんどでも〈再生〉される(*1)。

*1 こうした「無限再生」がYoutubeでの〈再生〉回数と結びつくとき、無限に再生-存在する〈彼女たち〉がリアルのNewjeansへと転移することで、現実のNewjeansの存在の存在感がなおも強化されるという、MVと現実の循環が生み出される。

6.第三の視線



 しかしヒス(=視聴者)/〈彼女たち〉の視線の交錯の外部に、もうひとつの視線がはさまれることで、満ち足りた円環は破綻する**(かのように思われる)**。それは登場するたびにヒスを見つめる男子だ。ヒスが〈彼女たち〉以外にカメラを向けるものがその男子である。そしてカメラを向けるたびに、その男子もまたヒスに眼差しを返す。
 この男子の存在をヒスと〈彼女たち〉の関係の外部としてとらえ、幻に対して現実を突きつける存在とする考えが一般的だが、その見方はあまりにも安易に現実/幻像の関係を捉えているといわざるおえないだろう。そのような見方を取る限り、視聴者が見た〈彼女たち〉は、再生‐視聴経験に反して「嘘の存在」なってしまう。では男子をどのような存在として語ることができるだろうか。
 ひとつの場面を詳細に見ていくことにしたい。その場面とはSIDE-Aで「Ditto」の楽曲の開始とともに移る水飲み場の場面だ。ほんの8カットほどだが、非常に複雑な編集が施されている。

cut01[A 現実]:ビデオカメラを置く
cut02[A 現実]:ヒスが腰をかがめ水に口をつける→男子がカットイン
cut03[A 現実]:ヒスなめの男子*楽曲スタート
cut04[A 現実]:ヒスの目元(クローズアップ)
cut05[A 現実]:ヒスなめ。男子が去っていく
cut06[A’ 想像された世界]:水に口をつける男子の顔(クローズアップ)
cut07[A’ 想像された世界]:ヒスなめの男子
cut08[A 現実]:ヒスの横顔

 ここで注目すべきなのは、男子はヒスの存在など気づいていないかのように、ヒスを見ていないということだ。他のシーンで写される男子がいつもヒスを見ていることを考えれば、明らかに矛盾している。かつ、なぜか同じ時間がループしているということも不可思議な点だ(cuy06-07)。
 なぜ時間を繰り返さなければならないのだろう。つまりここでは、時間が反復するように「編集」されている。ではこの「編集」の主体とは誰か―――ヒスである。時間がループするカットの展開からこの横顔のカットへとつなぐモンタージュは、それまでのカットを横顔によって「想像されたもの」とする解釈の余地を開く。もしもその解釈を取るとするならば、ヒスは「男子がすぐに去っていく現実」に対して「去っていかない現実」を重ねることで、現実を想像という名の編集によって、だまそうとしていると考えられるだろう。〈彼女たち〉は幻像であり、男子が現実である。というわかりやすい解釈を、この一連のカットは拒絶しているように思われる。むしろ、男子がヒスを見つめているその像こそが幻像でもあるのかもしれないのだ。
 であるならば、現実=男子という考えはもう取ることはできない。そして男子=現実/〈彼女たち〉=幻像という構造が破綻する。そして、このMVの「共謀と裏切りの構造」もまた、同時に破綻する。なぜなら、その「共謀と裏切りの構造」もまた、〈彼女たち〉は存在しないことを前提にしているからだ。
 「決別の儀としての編集」という節で「内部カメラ間編集」「外部カメラ間編集」「内部カメラー外部カメラ間編集」という編集の区分けを行った。それぞれ編集の主体を考えると、「内部カメラ間編集」はヒソであり、「外部カメラ間編集」「内部カメラー外部カメラ間編集」はフィクション外のディレクターである。とするなら、ここはあえて主体の別によって編集の種類を区分けし、前者を「内部編集」、後者を「外部編集」としよう。では上記水飲み場のシーンはどちらの編集が行われているのだろうか。どちらでもない、という解釈をここでは行いたい。つまり、「内部編集」が「外部編集」に侵入しているのだ。ヒソの想像の編集がフィクション外のディレクターの「外部編集」へと乗り移る。この解釈を取ることで、このMVの意図をすべて理解している主体の存在を措定する必要はなくなる。むしろディレクターは撮られた素材としてのフッテージ群に飲み込まれる。現実を素材とする映像表現であり、なおかつその素材としてビデオカメラを用いた映像を使用している構造によって、こうした作者の転倒がなされている。そのことでヒソの想像が「外部カメラ」にも侵入し、何が真実で何が幻像なのかがわからない映像群として「Ditto」が生まれる。だから「Ditto」に答えは存在しない。手がかりとなるのは、〈彼女たち〉の存在である。だからこそ本論では、現実/幻像の対立の彼方で、〈彼女たち〉の存在理由を探るという方針をとってきた。
 現実/幻像の彼方。その時思い出すのは〈彼女たち〉のひとり(ヘヨン)が ヒスに語り掛けた言葉だ―――「ヒス ヒスそれは違うよ!」―この言葉は、つまり、「わたしたちはいるよ!」という意味を持っているのではないだろうか。つまり、現実/幻像の彼方に〈彼女たち〉は存在している。


7.Stay in the middle




 ”Stay in the middle”とは「Ditto」のサビの一節だ。「中間にとどまっていて」と日本語に訳せるだろう。「中間」ということは、「あちら」と「こちら」があるということだ。では、そのあちらとこちらとはどこなのだろう。
ヒスが〈彼女たち〉を撮影しているという点から、あちら=〈彼女たち〉、こちら=ヒスととらえることもできるだろう。そのとき、「中間にとどまる」とは、〈彼女たち〉に埋没し自分を見失うのでもなく、かといって、ヒス自身に自閉して〈彼女たち〉を見放さない、ということとして解釈できるだろう。
あちらとこちらを、本論で語ってきた現実/幻像にあてはめることもできるだろう。あちら=〈彼女たち〉=幻像、こちら=ヒス=現実=男子。このとき、「中間にとどまる」とは、幻像と現実の中間にとどまることを意味するだろう。つまり、幻像と現実が排他的な関係、どちらかが優位になった途端にどちらかが否定される関係ではなく、現実と幻像が重ね合わされた、現実は幻像であり幻像は現実であり、この2項を分け隔てることができないような、そんな「中間の世界」を示唆しているのではないだろうか。サビの一節をもう一度前後も含めて引こう。

Stay in the middle
Like you a little
Don't want no riddle
say it back
Oh say it ditto

 誰かに語り掛けているように、この歌詞が歌われていることがわかる。では誰に?もちろん、ヒスである。そしてヒスが表情のない存在=空白の存在で、その空白に、再生‐視聴する視聴者が代入できるとする本論では、ヒスはすなわち視聴者である。そしてその視聴者とは、この、現実と幻像がないまぜになった、どっちつかずのMVの視聴者である。だから〈彼女たち〉はヒス=視聴者に向かって語り掛けている。現実/幻像の彼方にわたしたちは存在していると。だから中間にとどまっていて、と。

7.Don't want no riddle


”Don't want no riddle”(なぞなぞはいらない)。
 明白に、このMVに〈彼女たち〉は存在する。しかしその「存在する」とは、「現実/幻像」の2項対立を乗り越えた、ヒス=視聴者/〈彼女たち〉との再生‐視聴体験における「中間の世界」での「存在する」なのだ。
 客観的に存在する/しないという話ではない。むしろ客観的な存在する/しないという議論自体も、「中間の世界での存在」によって担保されうるだろう。なにかがそこに存在するという信念があることで、存在は存在する。存在の客観的な根拠は、その「存在する」から探索される。「存在の開始」としての〈彼女たち〉。視聴者がもしも〈彼女たち〉の存在に心を動かすのなら、そのたびごとに〈彼女たち〉は存在する。なぜなら再生‐視聴するわたしたちは〈彼女たち〉を見たのだから。



SIDE-Bの楽曲終了後、大人になったヒスはビデオを再生する。かつてそこにいた〈彼女たち〉がTVに写される。ビデオに閉じ込められた昔のヒスと〈彼女たち〉の時間は記録されてしまった以上、こうして再生‐視聴されることから逃れることはできない。大人になったヒスは高校生のヒスを依り代に、〈彼女たち〉を視聴‐再生する。彼女はもう大人だ。昔、ビデオデッキを破壊し〈彼女たち〉を撮影することをやめ、〈彼女たち〉と決別した。ヒスはもう一度〈彼女たち〉と出会う。〈彼女たち〉を見るヒスの眼によって、彼女たちは再生‐存在する。昔の〈彼女たち〉の映像の1カットに「ヒス ヒスそれは違うよ!」といったヘヨンのカットの「ヒス ヒス」までが入っている。ヘヨンはこの時「それは違うよ!」とは言っていない。なぜならヒスは〈彼女たち〉を視聴‐再生しているからだ。もうヒスは〈彼女たち〉が存在しない映像の編集はしない。決別は遠い過去の話だ。ヒスの後ろで扉を開ける音がするとともに、高校生のヒスと〈彼女たち〉が部屋に雪崩れ込んでくる。〈彼女たち〉は再生した。そのとき、もうヒスは部屋にはいない。〈彼女たち〉はヒスが座っていた場所に座る。画面が暗転し〈彼女たち〉が「映画映画映画」言う声が聞こえる。今度は〈彼女たち〉が視聴者になる。何を観る?映画を。演技という嘘でできた虚構に本当を見る映画を。嘘か本当かなんて、実はどうでもよいことなのだ。


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