3 三内丸山と亀ヶ岡

縄文時代像の変容

三内丸山遺跡

 近年の大規模な発掘(はっくつ)調査によって、縄文(じょうもん)時代に対するこれまでの、非定住(ひていじゅう)・狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)経済といった認識を大きく改めざるをえなくなった。その代表的な遺跡(いせき)として三内丸山(さんないまるやま)遺跡、続いて縄文文化の極致(きょくち)ともいわれる亀ヶ岡文化を紹介したい。三内丸山遺跡はJR青森(あおもり)駅の南西約三キロ、青森市を望む標高(ひょうこう)約ニ〇メートルの河岸大地(かがんだち)に位置している。江戸時代から知られ、菅江真澄(すがえますみ)も一七九ニ(寛政(かんせい)四)年、縄文土器(じょうもんどき)や土偶(どぐう)を発見し、紀行文(きこうぶん)に詳(くわ)しくのべている。

 計画的な都市計画

 三内丸山遺跡は縄文前期の中頃、約五五〇〇年前から中期の中期の末約四〇〇〇年前にかけて生活の営(いとな)みが見られ、その間、約一五〇〇年の長期ににおよぶといわれる。土地利用という点では、時期によって多少の変化が見られるが、竪穴(たてあな)住宅跡(あと)が集中する住居地区、高床(たかゆか)式の建造物(けんぞうぶつ)が築造(ちくぞう)されていた掘立柱(ほったてばしら)建物群跡、土器・土偶・石製品を廃棄(はいき)した盛土、柱間(ちゅうかん)を正確に縄文尺(じょうもんじゃく)といわれる四・ニメートルをとった大型六本柱の掘立建造物跡、墓域(ぼいき)など各遺構(いこう)が整然(せいぜん)と定められた区域を守って造営(ぞうえい)されている。その配置(はいち)の中で従来の縄文時代観を覆(くつがえ)した発見と衝撃(しょうげき)を与えたのは、遺跡の北西端(たん)で発見された巨木柱(きょぼくかしら)である。この柱は縄文尺四・ニメートル間隔(かんかく)で短辺(たんぺん)に二本、長編(ちょうへん)に三本、長方形に整然と並んでいることから高床(たかゆか)の建物であったと見られる。高さが仮に一〇メートルとしても、直径が一メートル近い巨木(きょぼく)を切り倒し集落まで遊び、深い穴(あな)を掘って据(す)え付ける、そうした過程にも、組織された労働力が必要とされる。労働力を集中することができ、高い建物を建てる技術を持った人々がいたのである。縄文海進(かいしん)により、集落の近くまで海岸線が来ていることから、巨木柱の建物は海岸丘陵(きゅうりょう)の先端(せんたん)の見晴(みは)らしのよい場所に位置しているので、物見(ものみ)やぐらや灯台(とうだい)のような機能を持った可能性を考えられる。

食料の栽培

 縄文時代は、狩猟(しゅりょう)・漁撈(ぎょろう)・採集(さいしゅう)によって食料(しょくりょう)の確保がはかられたとされていた。しかし三内丸山(さんないまるやま)遺跡における大量の賢果類(けんかるい)(皮が堅い果実(かじつ)、ドングリの類)や栽培食物(さいばいしょくもつ)の発見などにより、縄文人(じょうもんじん)は少なくとも前期の半(なか)ばには、集落の周(まわ)りに木(こ)の実(み)がなる樹木(じゅもく)や食用植物を植え、人々の管理のもとに栽培(さいばい)運営がなされていたらしい。さらに三内丸山遺跡では、遺跡周辺に現在繁茂(はんも)しているイヌビエを食(しょく)していたとの考えもなされている。現実には付近の大型獣(おおがたじゅう)を獲(と)り尽(つ)くし、建物を造るために多くの木を切り倒すなど、自然破壊をおこなっていた。それだからこそ、失われた自然のめぐみをえるために、クリを植えたり、植物を栽培するなど、自然に意識的に働きかける農耕(のうこう)が始まったのであろう。

南北産物の交易センター

 新潟(にいがた)県糸魚川(いといがわ)のヒスイ、秋田(あきた)県槻木(つきぎ)産のアスファルト、岩手(いわて)県久慈(くじ)産のコハク、北海道産の黒曜石(こくようせき)などが出土(しゅつど)としており、遠隔地(えんかくち)との交易(こうえき)によって運び込まれてたと思われる。日本のヒスイ原石(げんせき)は新潟県糸魚川(いといがわ)市の姫川(ひめかわ)にしか生産しないが、三内丸山遺跡では見事(みごと)な大珠(おおたま)の製品だけでなく、原石(げんせき)や加工途中の未整品も出土している。三内丸山にはヒスイ加工の工房(こうぼう)もあって、北海道から出土しているヒスイはここから運ばれたことも考えられる。特に縄文時代前期から中期にかけて、東北地方北部と北海道南部は円筒(えんとう)土器と呼ばれる土器を持つ同じ文化圏(ぶんかけん)で、その中ではとくに頻繁(ひんぱん)に三内丸山遺跡を中心に交易がなされていたと思われる。

三内丸山の放棄

縄文期間一〇〇〇年の定住(ていじゅう)を続けた三内丸山(さんないまるやま)はなぜ放棄(ほうき)されたのだろうか。三内丸山が栄えた期間はちょうど海水面が一番高い時期であった。当時は台地のすぐ下まで海が入(い)り込(こ)んでいて、三内丸山の人々は谷から直接海にこぎ出すことができた。だが海水がしだいに後退(こうたい)していくと、谷から直接、海に乗り出すことができなくなった。海水魚(かいすいぎょ)を常食(じょうしょく)としていた彼らにとって、クリなどの栽培(さいばい)、小動物だけではこの台地の人々を支えきれなくなって、人々は移住(いじゅう)・分散して台地から平野と移っていったのだろう。

三内丸山から亀ヶ岡文化へ

三内丸山遺跡から縄文後期を経(へ)て、晩(ばん)期になると縄文時代の後期をかざる亀ヶ岡文化が栄える。亀ヶ岡遺跡は、青森県岩木川(いわきがわ)下流、木造町(きづくりまち)の遺跡である。三内丸山の文化が豪放(ごうほう)であるのに対して繊細(せんさい)で優美(ゆうび)な感じをいだかせる。江戸中期の紀行家として有名で、東北各地の民間生活を記録した菅江(すがえ)真澄(ますみ)も、一七九六(寛政八)年、亀ヶ岡で掘り起こされた土器類を論じている。亀ヶ岡式土器には食事における盛り付け、祭礼(さいれい)や葬礼(そうれい)などの特別な行事に用いられた精製(せいせい)土器があるが、壺(つぼ)・香炉(こうろう)・注口土器(ちゅうこうどき)には赤色漆(せきしょくうるし)や黒漆(くろうるし)で彩色(さいしき)されている。また亀ヶ岡というと遮光器土偶(しゃこうきどぐう)が有名だが、この亀ヶ岡系土偶は、亀ヶ岡土器とともに、北海道、東北地方一円(いちえん)、関東、近畿(きんき)地方まで広がりを見せている。このように、最近、縄文時代は新たな目で見直しが行われており、各地でも発掘が続いている。とくに農耕の始まりについては、縄文農耕の可能性が高まり、日本の歴史の書き替えが行われる可能性も高い。

参考図書 『三内丸山遺跡』アサヒクラブ臨時増刊 朝日新聞社

ISBN978-4-634-01640-8

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