(ピアノの日) 7 渡来人

(出典:ISBN978-4-634-01640-8)

渡来人とは

古代において、朝鮮半島などから日本列島に移住してきた人々のことを渡来人という。そう呼称するようになったのは、一九六七年、作家金達寿(キムダルス)氏が提唱(ていしょう)されてのことで、それ以前は「帰化人(きかじん)」と呼んでいた。今日「帰化」とは自国籍を捨て他国籍を取得(しゅとく)することであるが、古代においては国籍の観念はなく、帰属(きぞく)すべき国家そのものも成立していなかった。本来の「帰化」は君主の徳(とく)に感化(かんか)されて服属するという意味で、王化(おうか)思想に基づいた表現であり、さらに近代以降(いこう)の日本人の朝鮮人に対する差別観とも関わると意識されるようになって、『古事記(こじき)』、『風土記(ふどき)』記載(きさい)の「渡来(とらい)」を用いて、「渡来人(とらいじん)」と呼ぶようになったのである。

日本人の祖の一つ

 渡来人移住の波は、縄文(じょうもん)末期〜弥生(やよい)前半(稲作(いなさく)と金属器をもたらした)、五世紀後半〜六世紀初葉、七世紀末葉(まつよう)などど、その期間に移住して来た渡来人の数は一〇〇万人(年間一〇〇〇人)であったとの推計(すいけい)もある。渡来の理由は、倭国(わこく)も関与した朝鮮半島における戦乱からの避難(ひなん)、百済(くだら)・高句麗(こうくり)滅亡後の亡命(ぼうめい)や、倭(わ)国に派遣(はけん)されたそのまま移住するなど様々である。五世紀後半以降(いこう)到来した直接生産者は、同じく到来人で中央居住(きょじゅう)の秦氏(はたうじ)や漢氏(あやうじ)によって貢納民(こうのうみん)として編成された(秦氏ー秦人(はたひと)ー秦人部・秦部など)。倭王権は七世紀末葉の到来人を、列島各地に居住させている。例(たと)えば、百済人四〇〇余人を近江国神崎(おうみのくにかみさき)郡に、七〇〇余人を蒲生(がもう)部に、高句麗人五六人を常陸(ひたち)国に、新羅(しらぎ、しらん)人一四人を下毛野(しもつけぬ)国に、などである。各地の百済・新羅・高麗(こま)を冠する郡郷(ぐんごう)や神社(じんじゃ)・寺院は渡来人に縁がある。
 著名(ちょめい)な渡来人の子孫には、鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利仏師(とりぶっし))・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・高向(たかむこの)玄理(げんり/くろまろ)・僧旻(みん)・行基(ぎょうき)、大仏造立(ぞうりゅう)に功のあった国中公麻呂(くになかのきみまろ)、桓武(かんむ)天皇の母高野新笠(たかのにいがさ)、征夷大将軍阪上田村麻呂(さかのうえのたかむらまろ)・最澄(さいちょう)らがいる。王族くらすの到来人(百済王し氏・高麗氏など)は、律令(りつりょう)国家の官人(かんじん)を構成した。九世紀に編纂(へんさん)された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には京・畿内(きない)に居住(きょじゅう)する約一二〇〇し氏の名を登載(とうさい)するが、そのうち三割にあたる三二六氏が「諸蕃(しょばん)」(渡来系)に分類されている。この数字は氏(うじ)を形成する土層の渡来系集団であって、当然、京・畿内の民衆や地方在住の渡来系集団の数は含まれていないから実数は多くなる。このような各地の多数の渡来人は、在来の人々と混血(こんけつ)して今日の日本人を形成していった。

文化の創造主体

 五世紀後半以降の渡来人は、文字・暦法(れきほう)・儒教(じゅきょう)・高級織物技術・金属工芸・製鉄技術・馬の飼養(しよう)と乗馬・須恵器(すえき)・土木技術・麦(むぎ)栽培などを日本列島にもたらした。なかでもU字型鉄製農具は乾田(かんでん)の造成を可能にし、生産力が上昇(じょうしょう)した。それにより有力農民が台頭(たいとう)し、旧来の首長(しゅちょう)支配を動揺させた。大津宮(おおつのみや)で漢詩文が隆盛(りゅうせい)したのも、仏像制作が可能になったのも渡来人の活動による。この活動の上に古代文化が開花した。渡来人は古代文化の創造(そうぞう)主体であったといえよう。

参考図書 金達寿他 『日本の朝鮮文化』 (中公文庫)

(ソースはISBN978-4-634-01640-8から)


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