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地方紙に泣かされる


ちょっと最近地方紙が面白すぎる。
と思い5つの事例と共に「地方紙の可能性」について、書き殴ります。


なぜ今、地方紙が面白いのか?

2020年は「地方紙だからこそ」な広告を目にする機会が増えました。
背景にあるのはコロナ禍がもたらした様々な社会課題。
花火が上がらない、原爆慰霊式典ができない、家族の職業を原因とした差別・・

そんなイシューに地方紙がそれぞれの力を結束して立ち向かいます。
それでは早速事例を。


Case.1 
「今年の平和祈念式典は家で行われます。(と、想像してみよう。)」

長崎への原爆投下から75年となった8月9日、長崎新聞が用意したのは「新聞紙一枚ぶんの式典会場」。平和公園の地面を原寸大で各家庭に提供しました。コロナウイルス感染拡大の影響で、式典への参加者が限定せずを得ない状況下で行われた企画です。
#8月9日に想像したこと を合言葉にtwitterのタイムラインには多くの参列者の姿が見られました。

下手すると例年以上に参列者が多かったのでは?
戦争を知らない世代が家族でその日を振り返るきっかけになったのでは?

そう思うとこの概寸縦50cm×横80cmのスペースに無限の可能性を感じてきます。


Case.2 
#来年の夏はきっと

今年 見ることができなかった
花火や夏祭りへの 思いを込めて色を塗り、
メッセージとともに 投稿してください。

上毛新聞の呼びかけに俳優や声優、サッカー選手や地元企業が応えました。毎年楽しみにしていた風景を共有していた人々がこうしたきっかけでひとつになる。住んでる場所や属性が違っても「故郷」で人々は繋がれることが証明されているようでした。


Case.3 
コロナではたらくかぞくをもつ、キミへ

暖房機器メーカーのコロナが新潟日報に掲出した広告。社名が新型コロナウイルスを連想させることから不安を感じる社員や家族がいるとの声を受け、メッセージ発信を決めたと言います。

もし、かぞくが、コロナではたらいているということで、
キミにつらいことがあったり、なにかいやなおもいをしていたりしたら、
ほんとうにごめんなさい。
かぞくも、キミも、なんにもわるくないから。
わたしたちは、コロナというなまえに、
じぶんたちのしごとに、ほこりをもっています。
キミのじまんのかぞくは、
コロナのじまんのしゃいんです。

同内容の手紙を全社員に送ったそうです。
血が通ったというか、社員と家族を心から想う真摯な姿勢が伝わってきます。

もしこれを読売新聞全国版に掲出していたら?
ちょっと印象が違うかもしれません。
「地域の届けるべき人に届けたい」という誠実さというコンテキストが強化され、結果SNSを介して全国に広まった(=同様の理由で嫌な想いをしている人たちをも救った)、そんなように感じました。


ここまでで気づくのが圧倒的なクリエイティブの自由度です。
全国紙で15段や見開きの広告を出そうものなら軽く数千万の世界です。

地方紙はそれに比べるとまだスペースを抑えやすく、大胆な表現ができます。(決して安くはないです)


Case.4 
広告も真っ白じゃないと落ち着きませんでした

こちらも大胆なクリエイティブ。しかも4日間に渡るシリーズ広告だったようです。初日から3日間は企業名のみという潔さ・・!



Case.5 
2m離れないと読めない広告

ソーシャルディスタンス。2m以上離れてこの紙面を見てください

そう岐阜新聞が5月に掲出した啓蒙広告。普段新聞を読む距離だと文字として認識できないところを、離れてみると文字が浮かび上がってくるという仕組みです。

まだ馴染みのない「ソーシャルディスタンス」の感覚を持つきっかけになりそうなこの広告は、入社2年目の新人社員が企画したとか。恐るべし。


おまけ

9歳の男の子がヘアドネーション。めちゃくちゃいい話で、すぐにYahoo!ニュースやTV番組を通じて全国に波及しました。おそらくその初報が南日本新聞(?)記者の方はどこからこの情報を入手し、こんなに清々しい笑顔を撮ることができたのだろう。こうしたネットワーク力も地方紙ならではの価値なのではないでしょうか。デスクで殺伐と唐揚げ弁当を食べている時にこのニュースを目にして目頭が熱くなりました。


まとめ

この夏はまだまだ面白い地方紙広告が出てきそうですね。
いよいよ泣かされそうです。
PRエージェンシーとして「地方紙さんと何かやりたい!」と思った私が考えるポイントは、ズバリ「土地に根ざした企画を」という事です。もし地方紙さんと何かのプロジェクトでご一緒できるなら・・担っていただきたい役割をまとめます。


語り手
「話者としての説得力」これは全国紙に無い地方紙の武器だと思います。
「●●新聞だからこそ言えること」こうした魅力を引き出せると良いですよね。長崎新聞が呼びかけるからこそ、皆さんが新聞紙を床に広げたのかもしれません。

コミュニティの担い手
上毛新聞の取り組みに郷愁に訴えかけることへの可能性を感じました。2020年は住みなれたその土地にいながら故郷を失ったような年でした。当たり前に行けるはずの夏祭りや花火大会がいとも簡単に無くなり。人々は日常の価値を再認識したのかもしれません。そんな中、そこに暮らす人々が抱く「共通の何か」を取り戻す旗振り役として、地方紙は大きな力を持つのではないでしょうか。

街の相談相手
近さ。精神的な心の距離。何とも形容し難い安心感を、地方紙は持っている気がします。土地に根ざして、それこそ生まれた頃からそこにあり続け、街と運命を共にする。「絶対に裏切らない」と言ったら言い過ぎかもしれませんが、どんなに勢いのある新興メディアも手に入れ難い資産(=信頼関係)を持っているのが地方紙なのかもしれません。そんな彼らの言葉を借りられる価値というのは見直されるべきなのかもしれません。



以上、長々2000文字失礼しました。
お付き合いありがとうございました。


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