映画『Coda あいのうた』コーダ当事者的解説と感想 ※若干ネタバレ?
1月21日公開の映画『Coda コーダ あいのうた』の主人公ルビーと同じCODA(CODAの意味は後ほど解説)の僕が、いちCODAとして感じたことを極力ネタバレ無しで書きます。
(2月4日追記:「若干ネタバレかも」というご指摘をいただきましたので、まだ映画を観ていない方は自己判断でお読みください)
あらすじ
本予告(映像:1分48秒)
タイトルの「CODA(コーダ)」ってどういう意味?
言葉の説明(上)にある通り、この映画の主人公の少女ルビーは「CODA(コーダ)」であり、それがタイトルということですね!
CODAと呼ばれる人々にも多様性があって、それは家族構成やコミュニケーション手段などの背景によって違いがあるのですが、ルビーの両親と兄がろう者であり(声ではなく)手話で会話していることから、ルビーも生後から家族内で手話に囲まれて育ったのだと見受けられます。
これを書いている僕もCODAで、ルビーの家族と同じように手話で育ちました。
映画中の共感できるシーンとして、学校での授業中にルビーが居眠りしており、起きてすぐに手話で話すというシーンがあります。僕も近い経験があります。きっと、寝ぼけている状態で「手話モード」「声モード」なのかを判断せず、家と間違って手話が出たのだと思います。
上の動画(44秒)はルビーが家業の都合で、大勢の前で父の手話での発言を声で通訳しているシーンです。本来であれば、娘が登場しなくてもいい場面でも、周囲に圧倒的に聞こえる人が多いためルビーは通訳者として家族で行動することが多くなります。
つまりルビー自身や家族は、他の大多数の家族とは「違い」を抱え、この映画の中でもその"葛藤"が多く描かれています。
たったひとり聞こえるルビーはこのストーリーの中で段々と"歌うこと"に自然に目覚めていきます。両親には遠い存在であるこの"歌うこと"や"音楽"が、この映画の"葛藤"の中で最大の壁なっていきます。
「わかり合いたい」という想いは、どの親子にもあることだと思います。エンディングに向かって「わかろうとする」「伝えようとする」それぞれの言動がこの映画の最大の見所でした。その部分は映画本編で楽しんで頂くとして、この記事では全体の中で重要な意味を占めているシーンを自分なりにピックアップして感想を述べています!
病院で両親の性病について通訳するルビー
映画序盤のなかなか強烈なシーンです。ルビーは学校終わり、両親と一緒に病院へ行きます。父は自分の抱えている症状と妻が抱えている症状を医者に伝えようとします。これが結果的にセックスが原因の性病なのですが、手話の性質(手の形や表情で表す)や父のキャラクターが相まって、まるでそこに実物があるかのようなアレの表現を、通訳を担うルビーはうんざりした表情で体を父へ向けずに見ています。
そして「もういいから!」と父を静止し、ポツリと「かゆいんです」とだけ声で医者に伝えます。
職業的な通訳者であれば、父の発言内容を正確に全て医者に伝えることが役割として必要になりますが、そうではない通訳をするルビーこそがこの映画のタイトルが意味する”CODA”の姿を表していると感じました。
ここにあるルビーの心情は、ルビーが"年頃の少女"であるという背景から想像ができると思います。
観た方には「(職業的な)手話通訳者を呼べばいいのでは…?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、急遽決まった予定で通訳者と日程調整ができない場合や、通訳費用が自己負担の場合、事情をよく知っている人でないと通訳が難しい場合、他人に知られたくない情報を扱う場面では、身内であるCODAに通訳や情報支援の役割がよく回ってきます。それぞれのCODAによって、その多い少ないはあると思いますが、映画中のルビーが通訳をしている場面は多く、その際の心情を読み取ることはこの映画のひとつの楽しみ方ですね。
高校生のルビーには、他の家族と比べて考えることや、家族と離れて自分がやりたいことがあるわけです。
立ち上がる家族と孤立するルビー
ルビー一家の家業は漁師であり船で漁に出ることによって収入を得ています。ある日、所属している漁業組合から理不尽な要求を突きつけられ、家族はその組合からの独立を宣言し、独自の組合を作り活動します。しかし両親は聴者(聞こえる人)と連携するイメージが全くなく、父はルビーに対して「聞こえる人との仕事はルビーにやらせればいい」と言わんばかりの態度を取ります。
その独自の組合は、他の漁師の賛同も得て順調。映画は軽快な音楽に乗って中盤の盛り上がりを見せます。ルビー一家の船の上には早朝から働くルビーの笑顔がありました。ルビーは積極的に周りの"聞こえる"漁師たちと関わり、家族と連携して家業の難局を一人の戦力として乗り切っていきます。
その合間、歌の練習をしたり、仕事を切り上げて歌の先生とのレッスンに参加します。
軌道に乗る両親の仕事、聞こえる人への対応が集中するルビーには移動中も電話対応がある等、忙しくなっていきます。そして徐々に歌のレッスンにしわ寄せが行き、遅刻を繰り返してしまうようになります。事情を知らされていない先生はそれを見かねて「二度と遅刻しない」という最後の約束をルビーと交わすのですが、、、その誓いのレッスン日に突如、家業に初のテレビ取材というチャンスが重なってくるのです…!つまり、通訳をしなければなりません。
ルビーはその両方を取ろうとしますが気が気ではない状況で、家族やテレビクルーにも通訳に不満を示され、歌のレッスンにも遅刻し…ついに先生から見放されるのです。
ルビーは家族にも先生にも分かってもらえない苦悩を吐き出す場所がなく、歌のコンサートがいよいよと近づいてきます。
「産まれたあなたが”聞こえる”と知って悲しかったわ」と娘に言う母の気持ち
予告にも登場するこのセリフを見た瞬間、今まで自分が見てきた「ろう/難聴/手話」といったテーマのテレビドラマや映画とは深さが違うなと感じました。このセリフを「(母の)おかしな発言」にならないように回収するためには、(ろう者に触れたことが少ない視聴者に対して)かなり濃厚な世界観の共有が必要です。非常にこの映画のチャレンジングな部分に感じます。
このセリフの背景には、この母自身の母も聞こえる人であり「関係が希薄であった」という発言のほか、母の「聞こえる人とは会話ができない」という意識を表す言動の描写がいくつかあります。
僕はこのセリフは母自身の本音であり、母なりの「(娘と)同じものに触れたい、感じたい、わかり合いたい」という、どんなお母さんでも思うような気持ちの表れだと思います。
このシーンの最後には母からルビーへ、"聞こえない人から聞こえる人"へではなく、母から最愛の娘へ、言葉が告げられます。そして、二人は自然に抱き合うのでした。
このシーン以降、映画は徐々に盛り上がっていきます。ぜひ、この葛藤や孤立からどのようにして立ち上がっていくのか。家族の言動に着目して映画を楽しんでいただきたいです!
制作過程に裏打ちされた『リアル』 さすがハリウッド
ルビー役のエミリア・ジョーンズは実際のCODAではなく、ASL(アメリカ手話)も初めて学んだそうです。とにかく鑑賞中、ルビーには共感しました。俳優としての実力に脱帽です。
そしてCODAという像を決定づけるのは、何より両親です。このろう者の両親役を実際にろう者の役者が務めています。これがマジで功を奏しまくってました。自分自身、幼い頃からろう者に育てられ、家族以外のろう者とも触れ合ってきました。ろう者にしかないテンポや息遣いというか、反応や表情とか、そのろう者らしいディテールというのは"聞こえる"俳優には再現できないものがあると思います。ろう者には手話言語とその土台に、聞こえない人の生活様式から生まれる「ろう文化」があり、この"文化"を映画の中に閉じ込めようという仕掛けを感じます。きっとそれは映画を観る多くの人にとって異文化と触れる楽しみにも感じられたのではないでしょうか。
その仕掛けが、さすがハリウッド。制作過程の中において、文字のない手話言語に対して脚本文章の内容を手話動画にすることや、手話言語/ろう文化/歴史面で監修するろう者ディレクター(DASL)を配置したりと抜かりないです。
リアルだから、葛藤がしっかり描かれた。そこに感動がありました。
最後に、この映画の監督・脚本を務めたシアン・ヘダーさんの言葉を紹介します。
この言葉から「"障害者"と"健常者"の感動エピソード」として作られた映画ではなく、「ろう者」と「CODA」という家族設定だからこそ強く伝わってくる普遍的なメッセージが込められている作品なのだと感じます。みんな「わかり合いたい」人間であり、そのために自分にできることをやるんだ!という人間臭さに胸が熱くなる映画でした。
バットとグローブを買います。