三浦仙三郎「改醸法実践録」と近代日本の酒造り(中)

(前)でも書きましたが、三浦仙三郎の人生と「改醸法実践録」の内容については↓の本に非常に詳しく書かれているので、具体的な数字などはそちらを読んでもらった方が分かりやすいと思います。
以下では改醸法実践録の簡単な内容と、読んでいて個人的に気になった事を上げていきたいと思います。

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改醸法実践録の特徴

「実践録」とある通り理論について詳細に書かれているわけではなく、「実際にこうやって見たらこうなったよ、他の人にやり方聞いてみたらこう言っていたよ」というリアリティ溢れる内容です。
記述の特徴としては、まず当時の酒蔵で共通認識としてあった酒造上の具体的な問題点を俎上に載せたうえで、どうすれば改善できるか?という、自分の蔵を題材にして語る一種のケーススタディです。
例えば、麹つくりに関して、「従来の麹室では熱が逃げやすかったり、乾湿差とりにくかったり、狭すぎたりして不都合が多いよね、これらの問題点を解決するために、うちではこうしてますよ(雑な要約)」
みたいな前文から始まります。

個人的に面白いと思ったのは、単なる技術論にとどまらず設備投資を積極的に進めている点でした。
従来のように、蔵元は設備を用意して、杜氏はそれを使って酒を造る、みたいな関係だと中々そうはなりません。
勿論杜氏の側から「こういう道具や設備が必要だから入れてくれ」という要望を出すこともあるでしょうが、杜氏は現場を回すのが仕事であって普通は経営的な視点を持たないし、逆に蔵元が経営的な視点しかないと設備投資を抑えたくなるのが人情ですから、銭金の話になるとどうしても対立関係に陥ります。
これまで誰も使ったことの無い道具や設備を積極的に取り入れ、先進地の技術を挑戦的に取り入れられるのは、実作業も行う現場型の経営者ならではの強みなのだと思います。
明治期になって酒造技術の革新が起こったのは、西洋科学の受容に依るところが大きいですが、それを実際に導入させようと決めた「現場も見る蔵元」、まさに三浦仙三郎のような酒造家が現れたことによって加速したのではないかな、とこの資料を読んでいて僕は感じました。

麹つくり

「改醸法実践録」の中で最も多くの紙面を割かれているのが麹つくりの項目です。
・麹室の構造
・種麹(もやし)の取り扱い方法
・麹の製造法
の三項目が書かれています。三浦仙三郎の酒蔵や、知り合いの酒造家から集めた具体的なデータと共に記されていますが、ここでは本に書かれている数字そのものよりも、どうしてそうなったのか? という原因について、(おおいに想像を交えつつ)紹介していきたいと思います。

・麹室の構造
この時代の麹室は、断熱資材が藁と籾殻しかなく、電熱も無いため部屋の昇温はほぼ麹からの発熱のみに頼っていました。
このことから当時の麹室には構造的にいくつかの弱点がありました。
まずは断熱不足。保温資材の貧弱さにより部屋の断熱性が低いので、この頃の麹室は地下室や岡室(土砂で小山を築き、その中に室を作る)のように、土の断熱性を利用して保温につとめる方式が多くみられました。
三浦の麹室も岡室を採用していますが、岡室特有の地面から上がってくる湿気を防ぐために、一度地面を掘り下げて石を敷き詰めるなどの工夫を行っています。

麹室の容積については「引き込みする米の容積の120倍」という非常に具体的な数字を上げています。例えば、引き込み150キロ(150リットル)なら、18立方メートル位ですね。
麹の製造量にたいして部屋が広すぎると、麹の発熱量だけで十分な室温を確保できないため、加温設備や高機能の断熱素材を使った現代の麹室に比べると狭く、作業性が悪かっただろうな、と想像できます。

麹室が狭く、保温のために極力換気を行わない場合に問題になってくるのが、過湿と酸欠でしょう。
麹は発熱と共に空気中に水分と二酸化炭素を放出します。
室の中の湿度が高すぎると米の水分が飛ばず、麹が米の中心まで食い込んでいかないので酵素力価が高まらない上に、麹の水分を飛ばせないので細菌密度が上がりやすくなる危険性もあります。また、室が結露して梁や壁にカビが生える恐れもあります。
二酸化炭素濃度は、高すぎるとまず作業者にとって危険な筈ですが、なぜかその点に関する記述はなくて、二酸化炭素が多いと麹の生育に害があるという(現代の常識からすると少し不思議な)説が書かれているのみです。
過湿、二酸化炭素の充満を防ぐために、三浦仙三郎の麹室では長短二つの煙突を備えることで解決をはかっています。
酒造やっている人は大体聴いたことあると思いますが、いわゆる「野白式天窓」と同じ構造です。
この著作が書かれた時点(明治31年)では、野白金一先生はまだ野白天窓を発明してなかったはずでは? という疑問点が沸いてきますが(野白先生の独創ではなかったか、あるいはどっかの技手とかやってるときに既に発明して推奨していたとか?)、それはともかくとして合理的な工夫がとられています。

他にも、床の高さを棚よりも高くする(熱は室の上部にいくから、発熱元である棚の麹より床が低いと、床に伏せてある米の品温を維持できない)とか、断熱用に二重扉にするなど、実践によってえられた細かな工夫が記されています。

・種麹(もやし)の取り扱い
現代で市販されている種麹を使う場合には、この項目で記されている方法が参考になることはないと思うので割愛します。
「種麹の製造元はどこも自分の所の製品がいかにも良いものだと喧伝するが、実際のところは使ってみないとわからないから、多数を取り寄せて比較してみると良い。ただし、種麹を一度に大量に買うと、使いきる前に劣化するのできちんと保管しなければならない。保管方法は~(略)。あと、友麹(種麹を直接蒸し米に混ぜこむ)より、胞子だけ振った方が良い感じだったよ(ざっくりとした要約)」

・麹の製造法
細かな部分は割愛します。
原文では蒸し米の単位は一石、もやしの単位は匁、温度の単位は華氏で表記されていますが、読みにくいのでそれぞれkg、g、摂氏に変換して書いています。
全量蓋麹法での製麹。
種麹の使用量は蒸し米150kgに対しての数字です。
精白米(精米歩合85~90%程度?)なら種麹123g
普通白米の場合は(精米歩合90~程度?)105g

引き込み(製麹時間00:00~)
蒸し上がった米を室前のムシロに広げ放冷。品温33度位に下がったら種麹の1/3を振る。
品温30度位に下がったら室に引き込んで、山にしてムシロを被せ保温する。
室温25度。

床もみ(06:00~09:00)
床もみ。やり方は現代の方法と変わらず。揉み上げ温度28度位。
床もみ後、盛りまでに時々検温して、32度以上に上がらないように注意する(切り返しの記述はないが、温度を見て上がっていたら切り返しするということか?)。
室温25度

盛り(24:00~25:00)
麹蓋に盛っていく。十枚ずつ積んで、上に空蓋を被せる。
盛り時の品温は32~33度。
室温26度。

積み替え(27:00~28:00)
麹蓋の上五枚と下五枚を積み換える。
※昇温遅いときは省略

仲仕事(31:00~32:30)
麹品温32~33度で仲仕事。
室温27度。
天窓あける。

仕舞仕事(37:30~38:30)
麹品温35~37度で仕舞仕事。
麹蓋を積み直す際に、一枚おきに空蓋を被せて一列十二枚ずつ積んでいく。
室温26度。
天窓を開ける。

出麹(44:30~)
最高品温は38度。
状貌みて出麹する。やや若めの麹が良い。香り(栗香?)を参考にしても良いが、香りが出る時期は短期間で終わるので、注意。
出麹時の品温は35~36度程度。
室温26度。

麹製造法の章尾には、各地の酒造家から集めた麹の経過簿一覧が記されています。

現代の麹つくりと比べるとかなり低温経過であり、製麹時間も短めだな、という印象を受けます。
前提として、当時の米は精米歩合が低かったこと(目一杯磨いたものでもせいぜい85% 現代では普通酒用でも70%)と、麹室の熱源を麹からの発熱に頼っていたことを考慮する必要があると思います。また、現代で市販されている種麹ほど酵素生産力の高くはなかったであろうことも推測されます。

僕自身は低精白の米で麹を作った経験がほぼない(家で味噌用に作ったことがある程度)のですが、一般に低精白の米は吸水が少なくて、麹の養分となる栄養素が多いという特徴が挙げられます。
麹作りの究極の目的は、麹菌が増殖する過程で分泌する酵素を利用するところにあります。
蒸し米に付着した麹カビの胞子は、米の表面で発芽し、そこから菌糸を米の内部へと侵入させていく過程で様々な酵素を作るわけですが、米の状態や温度によって菌糸の伸びかたや生成される酵素の量・種類が異なってきます。
吸水率の少ない蒸し米だと、麹つくりの途中で米が乾いてしまって菌糸が入り込めなくなる危険性があります。そして、精白率の低い米は米の表面に栄養素の多い糠を残しているので、麹菌は表面で繁殖することを優先してしまいますが、実は麹カビが酵素を多く生産するのは米の中心に向かって菌糸を伸ばしていく時なので、表面だけみると良く麹カビが生えているように見えても、実は酵素の生産量は低くなることもあります。
この本で記されている製麹法は、それらの課題を解決するために(結果として成功していたかはともかく)試行錯誤した末に編み出されたのでしょう。
個人的な感想ですが、麹の品温を上げると菌糸の発達と水分の蒸発が盛んになるので、菌糸のハゼこみが盛んになる仲仕事までは低温経過で行って、表面だけに菌糸が繁殖する事態を避けてるのかな?
ハゼが見え始めたら~仕舞い仕事まで表面は乾かしつつも、米が乾きすぎないように低温経過で引っ張っていたのかな? などと思いました。
低精白の米を使って酒造用の製麹している方がいたら、実際のところどうやっているのか、この辺のテクニックについて伺ってみたいですね。

余談ですが、改醸法実践録の麹つくりを読んでいて、麹蓋の効果というものを朧気ながら知ることをできました。
現代の酒造においても麹蓋が使われる事はありますが、(剣菱のようなごく稀な例外を除いて)吟醸酒の麹つくりのような特別な用途に限って使われるのがほとんどでしょう。
吟醸酒での製麹に用いられるのは、いわゆる「突きハゼ」型の麹に仕上げたいからです。米の表面全体ではなく数ヵ所だけからポツポツと内部へ菌をハゼこませていく突きハゼ麹は、酵素力価(特にグルコアミラーゼ)は高いけれど雑味が少ないという理由で、端麗さと香りを求められる吟醸酒に使われる事が多いです。
麹蓋を用いると、盛った後の温度管理を細やかにできるし、表面積が大きいので乾燥させやすく、突きハゼ麹を作るのに適した方法だと一般的に言われています(僕は麹蓋触ったことないエアプですが…)。
ただ、麹蓋を使った製麹は、いわゆる箱麹法(麹蓋よりも大きな箱を使って製麹する)や床麹法(台の上に麹を広げ箱よりも大規模に製麹する)に比べて操作が煩雑で手間がかかる上、麹蓋の洗浄なども大変なので、吟醸酒の製麹に限って麹蓋を使う、という蔵が多いと思います。

僕が前々から不思議だったのは、このような手間のかかる麹蓋が、何故長い間使い続けられてきたのか? と言うことです。江戸時代に完成し現代的な酒造りの原型となった手法(寒造り、生酛、3段仕込み等)は、大量生産のために開発されたと言っても過言ではありません。
にも関わらず、どうして大量生産とは相性の悪い、煩雑な作業が必要な麹蓋を使い続けなければならなかったのかな? となかなか理解できませんでした。
現代の吟醸酒は米をあまり溶かさずにキレイな酒を造るために突きハゼ麹が必要とされる一方、江戸~明治の酒造りではしっかり米を溶かせる力価の強い麹が必要とされていたはずです。同じ麹蓋を使うにしても、目指す出来上がりの方向性は真逆になるでしょう。

改醸法実践録に書かれている麹室の構造を見てその謎は解けました。端的にいうと熱源がなく乾湿差を容易に取れないことが、麹蓋でなければいけなかった理由だと思います。
麹カビの生育適温はざっくり35度前後です。ただし、35度くらいは他の菌の繁殖も盛んになるため、麹つくりでは30度前後のやや低めの温度帯で大量の麹カビの胞子を培地(蒸米)に振りかけ、一晩保温して発芽するのを待ちます。
発芽後菌糸が伸び始めたら(麹カビが優占するので)徐々に麹の温度を上げて行くのですが、この時の昇温は麹自身の代謝によって発生する熱を利用します。
熱の放散量は表面積に比例するので、表面積が大きい(盛りが少ない)麹蓋では熱が逃げやすく、表面積の小さい(盛りが多い)箱麹や床麹では熱が逃げにくくなります。だから、麹蓋で作る場合と箱麹で作る場合では、同じ温度経過だったとしても、麹蓋の方が室内に放出する熱が多くなります(たぶん)。麹からの発熱を熱源として利用していた時代には、麹蓋でなければ室温維持が難しかったのではないかな? と思います。

また、地下室や岡室の様に乾湿差をとりにくい構造だと、乾燥させやすい麹蓋の方が良い麹をつくりやすいでしょう。
それから、品温が上がらなくて在室時間が長くなった場合にも、蓋の場合は積み重ねて置いておけるので(箱や床麹では難しい)、狭い室でも棚の空間を有効活用して臨機応変に温度管理ができる、という利点も考えられます。

とかく昔ながらのやり方というと(マスプロとの差別化をはかる販売戦略上、しょうがない部分もあるんですが)「気持ちのこもった手作りで少量生産」みたいな風潮があります。
しかし大抵の伝統技術は、発明された瞬間には、当時のテクノロジーの許す範囲での大量生産技術であったはずで、現代の技術や知識からすると最適ではない部分があったとしても、当時の合理性を追及した結果だと思うんですよね。
温故知新という使い古された言葉がありますが、これは昔の時代の技術をただ引っ張り出す事を意味するのではなく、その技術が必要とされていた背景も含めて知ることで、今現在自分が直面している問題に対する答え、さらに自分が今当然の事として見逃してしまっている問題を改めて見直すきっかけになれば良いなとか思いました。

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