
「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第十七話
【AM10:47】
「あー、つまりだな、熱力学第二法則で禁じられた『エントロピーの減少』が可能ならば、永久機関も存在できることになる。ところがこの観測者に仕事をさせることが可能かどうかを考えると・・・」
「先生!」
黒板に数式や図を書きながら熱弁を振るっていた堀川は、手を止めて振り返る。
「ん?誰だ?おお、美穂ちゃんか」
「あの、大変申し訳ないんですが・・・」
「いいよいいよー、なんでも聞きなさい!」
教壇から降りた堀川はカメラにどんどん近づき、恋河原のPCの画面には彼の顔が大写しになる。
「私、まったく理解できていません!」
堀川の申し出で急遽開催されたオンラインでの講義。参加者は紅林、恋河原、それに森林と清原の4人だ。
恋河原の返事を聞いた堀川は、目に見えてうろたえながら黒板の方に戻る。
「あ、あれかな。エントロピーの話からもう一度説明した方がいいのかな」
「先輩、結論だけお願いします。僕ら、理論は理解できないんで」
紅林がいうと、助け舟のつもりか森林がしゃべりだす。
「つまり、先生がおっしゃりたいのは『情報』についてですよね?」
「おー、森林さんと言いましたか。そうそう、観測者は仕事をしないという前提だったものが、情報を消去する際に仕事を・・・」
「先生!」
恋河原が悲鳴のように声を上げる。
「あのー」
PC画面の中で清原がおそるおそる右手を挙げている。
「僕なりに要点をまとめてみていいでしょうか?」
「ん?清原クンか。君ね、アークプラズマを使ってのシールドという発想は・・・」
「先輩!」
今度はみかねて紅林が制止する。恋河原のPC上では急に、堀川の声が聞こえなくなった。おそらくは紅林が管理者権限でミュートにしたのだろう。
「清原君、続けてください」
清原は担当教官である堀川の動向に目をやりながら、おずおずと話し出す。
「これまでの下柳さんの話や、さっき聞いた恋河原さんの【記憶】のことを総合すると、『より多くの人間が怪異の情報を共有することで、ゲートを閉じることができる』ということになりますよね。これって、怪異を知った人間が持つ『情報』を悪魔が『削除』する際に『仕事』が発生して、そこにリソースを食うからじゃないでしょうか。つまり、悪魔の手を『仕事』でふさぐことができれば、ゲートは小さくなる、ってことじゃないかと」
清原の話を聞いているのかいないのか、画面の片隅で堀川は首を縦に振ったり横に振ったり忙しくしているが、何を言っているのかはわからない。
「では、我々にできることは端的に言うと『リミットの19時までにゲートの脅威をより多くの人間と共有すること』ということになるのかな。・・・先輩、どうでしょう?」
紅林がミュートを解除したらしい。堀川は咳払いを一つすると、言った。
「・・・それだよ、私が言いたかったことは」
紅林は大きくうなずき、画面上の全員に向かって語りかける。
「ではみなさん、これから『起死回生プラン』をご提案いたします」
【PM05:20】
北都テレビの報道部フロアー。午後6時20分からのローカルニュース番組の放送に向け、フロアー内の記者やスタッフが慌ただしく作業を進めている。
副編集長の水沢恵一は横並びの6つのモニターを眺めながら、この日のニュース項目をPC上でチェックする。
トップニュースは2人が死傷した市内の火災。つづいて、近隣の自治体で起きた殺人事件の続報。3週間後に迫った知事選の特集を置いて、その後に宗教団体がらみの住民トラブル。
このニュースは恋河原の持ち込み企画。昨日の取材で大きな進展があったというので短いながらも現場からの中継リポート枠をとっている。
恋河原の勢いに押された形で中継もやることにしたが、冷静に考えるとそこまでやる必要もなかったような・・・と首をひねり始めた水沢の肩を、誰かが叩く。
「よう、久しぶり」
かつての同僚、入社同期の紅林太一郎がにこやかに微笑んでいた。そういえばきょう訪ねてくると昼過ぎに連絡があったのだった。
「おう、ご無沙汰。どういう風の吹き回しだ?」
「美穂が、恋河原が中継リポートするっていうから、古巣で見させてもらうのもいいかなと思ってね。あと、最近仕入れた怪談、聞きたくないか?」
そういって紅林はニヤリと笑って見せる、水沢が『怪談バー』に通うほどの怪談好きであることを知っているからだった。
「おお、何?いいの仕入れた?」
「・・・ここじゃなんだな。あとは整理デスクに任せて、20分くらい喫茶スペースでもいかないか?」
紅林はフロアー外の喫茶スペースに向かってゆっくりと歩き始める。
「20分だけだぞ」
そういって水沢はPC上で開いていたニュース項目のアプリケーションを閉じ、席を立った。
【PM6:15】
「こちらの中継までおよそで20分です」
本社との連絡担当として現場にやってきた恋河原の後輩記者、斎藤健介が周囲に告げる。
「はーい」
返事をしながら恋河原はカメラマン・川端と、音声マン・狭山に目配せする。2人にはこの後の計画は打ち合わせ済みだが、斎藤には何も知らせていない。まだ若い後輩を巻き添えにするのは可愛そうだ、と考えたからだった。
それにしても、と恋河原は『クロノスの会』の3階建てのビルに目をやる。その後ろにはビル全体を飲み込んで余りあるサイズの大きさの空間の破れ目が見える。
破れ目の向こうは恋河原の目には、夜よりも暗い漆黒の空間が広がっているように見える。あれが『不滅』の異次元の姿なのか、それとも単なるゲートを覆う扉に過ぎないのか、恋河原にはうかがい知ることはできない。
わかっていることは、『このまま何もせずに19時を回った場合、この宇宙は終わる』ということのみである。
「LIVEーU繋ぎます」
狭山が現場の映像と音声をニューススタジオに送信し始めたことを伝える。
「掛け合いとマイナスワンのチェックお願いします」
斎藤がスマホを連絡線として使いながら、本社とやりとりをしている。
「よし!」
恋河原は両手でパチン、と頬を叩いて気合を入れた。
<続く>