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「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第十六話
紅林は櫻田を睨みつけながらも、慎重に言葉を選ぶ。
「茶番だと。お前さんにとっては茶番でも、弱々しい人間にとっては文字通りの死活問題でね。どうだ、生き残ってる褒美代わりにその『仕掛け』とやらをご披露いただくってのは」
櫻田は小さく何度かうなずき、口を開く。
「言葉とは、なかなかに不思議なものです。挑発的でもなく、懇願するわけでもない。何気ない提案の形で交渉に持ち込もうとしている。あなたにはネゴシエーターの素質があるのかもしれない」
紅林は表情を変えず、淡々と返す。
「ではこういう言葉ではどうだ。・・・『冥土の土産』に教えてほしい」
「なるほど。ユーモアもお持ちのようだ。ふふ、もとよりお話しするつもりですよ。それに、あなたたちの行き先は『冥土』ではありません。むしろ『天国』というべき場所かもしれませんよ」
「・・・」
紅林は先を話すよう、無言で促す。恋河原はただ不安そうに紅林を見守っている。
「ゲート。並行宇宙の一つと繋がる『カラビ=ヤウゲート』を開きました。私が選んだその宇宙の特性は『不滅』。この宇宙に『不滅』の概念を付与して、完璧な宇宙を生み出すのです。これまでにない大きさで開くために準備が必要でした」
「俺をおとりにして、美穂を足止めしたことか」
「私にとって真の脅威は恋河原さんではありません。ゲートをふさぐ力をもっていたのは下柳さんだったのですから」
「そんな!」
下柳の存在を知らない紅林に代わって、恋河原が声を上げる。
「恋河原さん、あなたは彼女を救うこともできたかもしれない。しかし、あなたはそれを選ばなかった。でも、案ずることはありません。並行宇宙との融合で、あなたたち人間は永遠の命を得るのです。その代り、感情という不合理なものは捨て去っていただきます。寿命もなくなりますから子孫も必要ありません。一切の欲望もなくなり、争いも起こらない。完璧にして平穏な宇宙が待っているはずです」
「そんなのはもう、人間じゃない!人類じゃない!」
ここまで怒りを押さえ込んでいた紅林が激高する。
「私は6時間前に、恋河原さんに対して24時間の期限を設けたゲームの開始を宣言しました。あのタイムリミットは、並行宇宙との融合が始まる臨界点の設定でもありました。リミットのきょう19時まで、残された時間は18時間。どうぞ悔いのないようにお過ごしください」
櫻田は大仰な様子で一礼すると、そのままふわりと宙に体を浮かせる。
「では、ごきげんよう」
言い残すとその姿はふいに、夜の闇に紛れて消えた。
紅林と恋河原はしばらく言葉を発せずにいたが、沈黙を破ったのは紅林の方だった。
「さて、聞いてましたか、先輩」
いいながら左手に持ったスマホを顔の高さまで差し上げ、スピーカーフォンに切り替える。
「深夜にいきなりかけてくるんじゃないよ。こっちは家庭もあるんだ」
聞こえてきた堀川の声に、恋河原の表情が微かに緩む。
「どう思います?」
と、紅林が聞く。
「『悪魔』が警戒していたのは、記憶のカケラを拾う美穂ちゃんの能力ではなく、ゲートをふさぐことのできる下柳さんの能力だった、ということだな。その下柳さんは今は存在が消されている。紅林、お前はおとりとして使われたわけだが、なぜそんなことをする必要があった?」
「・・・時間稼ぎ、ですかね?」
「そう。その稼いだ時間、というのは『美穂ちゃんが下柳さんを救うための時間』だったわけだ。下柳さんを救う手立ては本当にもうないんだろうか」
2人が話をしている間に、恋河原はある変化を感じ取っていた。
どこからか、声がする。消え入りそうにか細い声。つぶやきのような、お経のような・・・。
耳を澄まし、周囲を見渡す。と、恋河原の目は20メートルほど離れた場所に、紅林を見つけた時のような光の点を見出した。だがその点は、恋河原が見つけ続けても大きく広がることはない。
やがて光の点は、風に飛ばされる綿毛のようにふわりふわりと恋河原に近づきはじめた。
「まさか、下柳さん?下柳さんですか!?」
「なんだ、下柳?下柳さんがそこにいるのか?」
恋河原の声を聞きつけた堀川が、電話越しに驚きの声をあげる。
「先輩、ちょっと静かに!」
紅林はささやき声で電話の向こうに伝えると、恋河原の様子を見守る。
光の点は恋河原の頭上で、2回、3回くるくると旋回すると、ふっ、と停止して、恋河原の頭頂部からスポンと体内に飛び込んだ。
「えっ!」
驚きのあまり、尻もちをついた恋河原はそのまま頭を抱える。
「・・・これは、下柳さんの記憶。下柳さんが見てきたもの。こんな、こんな。小さなころからひとりぼっちで、戦っていたんですね。守ってくれていたんですね」
恋河原の頬を、先ほどとは違う意味合いの涙が伝う。
「なんだ、何が起きてるんだ。おい、紅林!状況を・・・」
紅林は通話ボタンをオフにして、恋河原に近寄ると、その肩に右手を置いた。恋河原は周囲を見渡しながら、つぶやく。
「見える。いま、私にも見えますよ、下柳さん!あの破れ目を消していけばいいんですね!?」
恋河原は肩に置かれた紅林の手に左手を重ね、もう片方の手で涙をぬぐった。
<続く>