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「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第二十一話
「ご理解いただけないとは、困ったものですね」
意識を集中していた自分の脳に、直接語りかけてくるものがいる。恋河原は直感的にそれを認識した。
瞑っていた眼を静かに開き、周囲を確認する。自分以外のものが動きを止めている、ように見えた。
「あなたの意識は今、肉体を超え、次元の壁に到達できるほどの段階に達しています。ゲートを維持するのに大きな力を使っている今、私も目くらましのような妨害しかできませんでしたが、おかげでこうしてあなたとまた、話す機会を得ました」
「ならばもう、あきらめてください」
恋河原は櫻田に、櫻田だった意識体に向かって話しかける。
「私は下柳さんを救います。それで、あなたの野望は終わりです」
「ヘレン・ケラーという人間がいましたね」
「?」
「彼女は1歳半の時に高熱で視覚と聴覚を失いました。目は見えず、耳も聞こえない。人間社会から切り離された暗闇の中で、動物のように生きていた彼女を救ったのはアン・サリバン。アンがヘレンに『指文字』という手段を使って情報をインプットすることに成功したおかげで、ヘレンは様々な『概念』を会得し、より高次の存在へ進化することができたのです」
恋河原の目では『意識体』をとらえることはできない。やむなく、恋河原は周囲で振動しつづけるゲートに向かってしゃべることにした。
「いったい何の話です?私の気を散らすのが目的ですか?」
「私がアンだとしたら?あなたたち人間がヘレン・ケラーで、私がアン・サリバンだとしたらどうでしょう。私があなたたちに与えるものは、あなたたちの存在を高める高次の扉なのです。あなたが個体として感じている『未知へ恐れ』が人類全体の進化を妨げようとしている。そうは思いませんか」
「それは詭弁です。詭弁を真に受けるほど、幼くはありませんよ」
試されている。恋河原はそう感じた。ここで自分の心が揺らげば、押し戻される。
「そもそもあなたは『観察者』だったはず。介入は不要です」
「時間とはモノの寿命そのもの、と私は言いました。あらゆるものに寿命があるのです。・・・私が見つけだした、たったひとつの宇宙を除いては。それがこのゲートの向こうの『不滅』の宇宙です。逆に言えば、その『不滅』宇宙以外のものはいずれ滅びます。『観察者』たる私でさえも例外ではありません。ただ、『不滅』宇宙のみが残ったとしたら、それは概念上は『死』と同義といえるでしょう」
「私には理解できません。理解できない理由で、説得されることもありません」
「人はひとりでは生きてゆけない、といいます」
恋河原は、目まぐるしく変わる相手の論調に翻弄されるのを防ごうと、目をつぶって深呼吸した。意識体はなおも語り続ける。
「自分以外のすべてのものが息絶えていく中で、最後まで観察を続ける役割は、地獄そのもの。それをあなたは私という存在に押しつけるのですか」
「・・・あなたから見れば、下柳さんも私も、ただの邪魔者かもしれない。だけど下柳さんは、誰に認められることも褒められることもないまま、静かに怪異と向き合ってこの世界を守り続けた。その下柳さんをこの世界から消し去ろうとしたあなたという存在を、私は許さない!」
恋河原美穂の周囲を小さな光の粒が囲み始める。それはやがて螺旋の渦となって彼女を中心に巡り、うねり始める
「この宇宙の未来がどうなるかなんて、知らない!私は今、この瞬間のためだけに生きる!」
刹那、光の粒子が全方位にはじけ、恋河原は『櫻田だった意識体』が霧散し、周囲から消失するのを感じ取った。
気がつくと恋河原は、下柳を救い出すための瞑想状態へと戻っていた。寸前までの出来事が現実だったのか幻だったのか、いまさらもう知る由もないし、興味もない。
テレビカメラの前で光の輪は着実に広がっていき、その向こうには倒れ伏すひとりの女性の姿が見え始めていた。
<続く>