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「カラビ=ヤウゲート 深淵の悪魔」/第三話
深夜0時。
紅林は北都大学工学部棟に向かって歩き始める。8月に入ったばかりの大学は昼間でさえ閑散としているが、夜ともなればすれちがうものもない。
そんな中でも工学部棟だけは、ちらほらと明かりのついている部屋が見える。時間のかかる実験は、場合によっては昼夜を問わないし、自分も学生につきあって研究室で夜を明かすこともしょっちゅうだと、堀川は言っていた。
北都大学工学部の准教授となって3年目の堀川は、ときおりその研究室に部外者の紅林を呼びつける。それもたいていは深夜に。四十路を控え、もう若くはないのだからと紅林は言うのだが、悪癖は治る気配がない。
職員通用門から入館。夜勤の守衛がいるが、紅林は職員然として、軽く会釈して素通りする。深夜0時を超えて堂々と入館してくる人間は、逆に誰何されないものだということを、紅林は経験で知っていた。
勝手知ったる他人の家。電灯の消えた廊下を、ためらわずに進む。突き当りの階段を、踊り場の窓から漏れる外灯の薄明かりを頼りに、4階まで上がる。つと見渡すと、明かりのついている部屋は2つ。手前は実験室で、奥が堀川の研究室だ。
歩みを進めると紅林は、すっ、と風が動くような気配を感じた。限りなく質量のない何かとすれ違ったような気もしたが、その程度のことは気にしないことにしている。
研究室のドアを4度ノックする。ゆっくり4回ノックすれば、準備の時間もできるし、なにより紅林だということが堀川に伝わるのだ。紅林は返事を待たずに、扉を開ける。
「本物か?」
PCに顔を向けたままで、なにやら作業をしながら堀川が言う。
「・・・そのつもりですがね」
「ふむ。さっききたヤツとは違うようだ」
「何の話ですか?」
堀川はようやく手を止め、椅子ごと紅林に向き直った。
「20分ほど前に、その扉を4回ノックしたヤツがいてね。だが、待てど暮らせど、入ってこない。面倒だからそのまま放って置いたんだが、お前にしては気が長かったな」
「本気でやるなら、もう少し気の利いたネタを仕込むでしょうね。ホッケーマスクをかぶってスマホでチェーン・ソー音を再生するとか」
堀川は首をすくめ、顎で客用の椅子を指す。
「コーヒーでいいか?・・・あと、一番最近、幽霊をみたのはいつだ?」
「だから、言ってるじゃないですか。幽霊を見るのは俺じゃなく・・・」
「美穂ちゃんだろ。だからこっちも美穂ちゃんのことを聞いてるんだ」
来客用のマグカップに湯を注ぎながら、堀川はこともなげに言う。
「そもそも美穂が見てるのは、幽霊ではないそうですよ」
「じゃあなんなんだよ」
「うーん、どう解釈していいかわからないから美穂がいったままの言葉でいうと『誰かの記憶』らしいです」
「どう違うんだよ。成仏できない残留思念が怨念となって漂ってる、ってのとさ。ほい、どうぞ」
堀川は紅林にマグカップを手渡し、自分の椅子に戻る。
「美穂の脳内の感覚、ってことですかね。美穂の脳が、なにか電波みたいなものを拾って再生する。それを彼女は『誰かの記憶』って言ってるみたいなんですけど」
「発動条件は?」
「知りませんよ」
「そこがわかれば研究の余地があるんだがな」
「協力いたしかねます」
堀川はニヤリと小さく笑うと、コーヒーをすすった。
「ま、その話はいいとして、だ。一つ頼みたいことがあってな」
「僕でお役に立てることならいいんですが」
「実は・・・学生がひとり消えちまったんだ」
<続く>