理論と感性①
ある歌集を読んで、良いなと思ったときにふと自分が良いと感じるものを他人も良いと感じることがとても不思議だと思った。自分がたまたま出会って好きだと思うのはその時の自分の状況次第で変わる不確定で主観的なものなのに。自分自身がどういう仕組みで物を好きになっているのかわからないのに、他人がどういう仕組みでものを考えているかがわかるわけがない。それなのに、その他人が自分と同じ結論に至っているのはどういうことなのだろう。しかしこれは結構起こり得る。マイナーなミュージシャン、作家、番組ほど、自分の仲の良い人が「偶然」それを大好きだったりする。とても嬉しいし奇跡だと思っていてもこれはまあまあ起こる。とても仲が良い人、自分が好きな人ほどマイナーな趣味が何個も被るのだ。なぜだろう?
私は世の中の全てのエンタメや芸術はそのものに良さが内在していて、私たちがそれを感じられるかは自分の持つアンテナ次第だと思っている。自分の持つアンテナが鋭ければ鋭いほど様々なものの良さを感じることができる。例えば年を重ねたら歌舞伎の良さがわかるようになったという人のことを考えてみる。この場合、歌舞伎には何百年も前から人々を楽しませてきた根拠(良さ)があり、この人は今までの人生経験などによって歌舞伎を楽しむのに十分なアンテナがある状態になったのだ。芸能が本質的な価値なしに続く訳も無く、ただ今までそれに気づいていなかったということだ。私たちがものに対して「面白くない」と感じる時、多くは「分かっていない」のだ。
生まれた時の多少の差異はあるとはいえこのアンテナは環境の中で形作られていく。たとえば雙葉という同じ環境で六年過ごし同じような家庭環境の者たちがある程度同じようなアンテナを持つことは「必然」と言えるだろう。それが、気の合う友達、その人の紡ぐ言葉が好きな先輩などとはさらに近いアンテナを持っているだろう。こう考えると同じアンテナを持つものが、同じものに対して同じ感情を持つのは奇跡では無いのかもしれない。
(理論と感性②に続く)
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