第4回 高次脳機能障害とも知らず退院
退院
治療中にあれこれ面白いことが沢山あったが、そこは丸っと省略して3月14日に退院となる。
余談になるが、2月14日のバレンタインデーに小脳梗塞で倒れ、3月14日のホワイトデーに退院したことになる・・・何の意味もないけど何となく暗号めいてて面白かったが、ただそれだけのことだ!
私が退院するこの時点で、私は自分が《高次脳機能障害》だとは全く知らない。
というよりは、高次脳機能障害という単語自体を知らないで退院することになった。倒れてから普通の外の世界で実際に生活をしてないので、自分の頭の中がどれくらい不都合な事になっているかも分かっていなかった。
皆さんからしたら“外の社会での実際の生活”などと書くと、誰しも当たり前のことだし凄く大袈裟な言い回しだと思われるだろうが、わたし的にはこれでも控えめな表現だし、それはそれは過小評価もいいところなのだ。
小脳は過疎地
なぜここまで高次脳機能障害という後遺症を理解できていなかったかと言うと、それは私がお医者さんの仰ることを疑うこともないくらい素直だったからなのだ。お医者さんは言った。
「小脳は脳の過疎地と言われています。だから、しらはまさんは脳梗塞を起こされた方達の中でも運が良かったと思ってください」
「そうなんですか?今はけっこう目眩とかあるんですけど、これも暫くしたら治るんですね?」
と私は、体の不調はかなり酷いものだったが、心の中ではかなり喜んで質問した。
「そうですね、3~4か月、しらはまさんは若いから長くても半年もすれば目眩も治るでしょう」
私の右の椎骨動脈乖離が起きて、その裂け目に血が溜まり血管全体に栓をそしてしまって脳梗塞の形になってしまった。そしてその先にある右の小脳に行く血液を止めてしまったので、右の小脳が80%壊死してしまった。もう少し早く救急搬送を頼んでおけば、もう少し小脳を助けることが出来たかも知れない・・・が、病気に「たら」「れば」はない。もし次に梗塞を起こしたとき、死なない程度の症状だったら速攻で救急車を呼ぶと心に決めている。
目眩
「まぁ、様子を見て出来そうなことは普通にやって、体をよく動かすようにしてください。特に制限することはないですが、食事には気を付けて体重を増やさないようにするのだけは頑張ってください」
とお医者さんが言ったので、私は《近く全快するはず》と考えて失業保険の手続きをしに自転車でハローワークに通った。自転車をこいでいると、右に曲がる時には問題ないが左に曲がろうとすると、普通に曲がれず自転車は角を大きく膨らんで対抗車線に飛び出して行った。
私は、自転車のスピードを落として左に曲がる時は、足を着いて自転車が膨らみすぎないようにしたり、曲がれずにバランスを崩してた転倒したりしないように注意した。しかし、まだ左に曲がれない事に気付いてない時に数度派手に転倒してしまったのは言うまでもない!
「半年経てば、目眩も殆どなくなって気にならなくなりますよ。しらはまさんは、若いから全然気にならないくらいに回復しますから安心してください」
と、言われたお医者さんの言葉を信じて、ハローワークで職探しをしている間、フラフラと自転車で3キロほどの道を往復した。
8月には再就職が決まったが、少なくともそれまでには目眩は少しは軽くなったが、退院したときを7/10としたら、仕事が決まった時点では5/10くらいの強度の目眩だった。
もちろん高次脳機能障害だとは、まだ知らない!
家でも外でも、私自身、私の頭の働きがおかしいのは気付いていた。
倒れる前と明らかに違うのは、記憶力がかなり落ちていることに気付いていた。
この記憶力のなさは、《記憶する力が衰えた》のではなく、《集中力が無くなって記憶することが難しくなった》と言う感じだった。
とにかくイライラした。
イライラと言っても倒れる前の『本当にこいつにはイラつくなぁ・・・』くらいのことが、『イライラして、どうやったらこのイライラを抑えたらいいのか分からない・・・何かにこのイライラをぶつけないと気持ちは収まらない!!』と言うくらい強烈なイラつきだった。
このイライラは頻繁に起こるので、本当にしょっちゅう嫁さんと喧嘩を繰り返していた。
この喧嘩も倒れる前は口喧嘩で終わっていたのだが、座っている嫁さんを蹴ったり、ぶん回したり、布団にだが投げ飛ばしたりしていた。私自身は力の加減をしていると考えていたが、私は怒り狂っていたし、加減した力でもラグビーや柔道をやっていた私が女性に暴力をふるえば、どれだけのダメージを与えてしまうかは簡単に想像できる。
今では分かっているが、これらも高次脳機能障害による《記憶障害》や《易怒性》が関係した症状だとは、当時分かっていなかった。
本当にハードなのはこれからが本番だ!