エッセイ『バグったアンテナ』
エッセイ『バグったアンテナ』
外耳炎になって2週間ほどイヤホンをつけられない生活をしていた。右耳はほとんど聞こえていない日もあったし、そもそも耳が腫れて穴が塞がっていたので物理的にイヤホンを着けることは出来ない。私は家から職場まで2時間かかるため、イヤホンが使えず音楽も動画も楽しめない期間は、本当に苦痛で仕方がなかった。そもそも2時間もかかるようなところに勤めているのがおかしい。家を近づけるのは面倒なので職場が近くに来てほしい。でもあまり職場が近いと職場の人との飲み会とか増えそうだからやっぱりそれなりの距離はあっていい。そう言い聞かせて心の中に渦巻く嵐を宥める。イヤホンなしで通勤しているとこういうどうでもいい思考がいつも以上に頭の中に湧き続けてしまう。助けて。
ここ数日、ようやく外耳炎が落ち着いたのでイヤホンの利用を再開した。音楽を伴った通勤のなんと楽しいことか。今まで当たり前だった物が、一度取り上げられたことで輝きを取り戻した。いや、元々輝いていたのに、それに慣れてしまっていただけなのかもしれない。これまでただのBGMとしてあった通勤中の音楽が、異様な存在感を示す。普段意識しないと聞き取れない歌詞にまで意識が行き届いてゆく。
外耳炎明けの耳には、懐かしい曲がよく沁みる。絶望先生というアニメのキャラクターソングに『暗闇心中相思相愛』という曲がある。小中学生の頃好きだったアニメの曲だが、未だにたまに聞いている。思えばもう15年程だろう。この曲はメロディーや歌声(cv.神谷浩史)は勿論だが、歌詞がいい。
昔のアニメのキャラクターソング、で片付けるのはあまりに惜しい歌詞だと思う。職業柄、死にたがる人々と面と向かって関わる機会が多いので、この歌詞はぐさりと来る。不意であれ故意であれ、どう締めくくられるかで全体の印象も大きく変わる。それは物語でも人生でも同じこと。人生もある種の物語なので、当然といえば当然のことだが。そんな当たり前に、キャラクターソングで気付く。音楽に対する感覚が鋭敏になっている今だから気付いたが、きっと日常にはこういうチャンスが無数にあるのだろう。そして普段からアンテナを高く持っている人は、こういうチャンスを逃さない。だが、私のアンテナは決して高くない。だからこそイレギュラーをきっかけに(今回は外耳炎)、感度のバグったアンテナで日常に潜むチャンスを強引に掬い上げるのだ。