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エッセイ『終電』

 久々に終電に乗った時の気持ちをエッセイにしました。終電に乗りながら寝ないために書いていたので、酔っ払った文です。


 終電に乗った。いつ以来だろうか、酔った頭では思い出せない。そこまで酔っているつもりもないのだが。それにしても記憶の中の終電間近の新宿駅は、もっと汚いような、臭いような、人の生々しさのようなものがあった気がする。昼間済ました顔をして社会生活を営む人々が、その化けの皮を剥がし(或いは剥ぎ取られ)、どうしようもなくなっている様が散見できた。それを目の当たりにすると、人間も結局ただの動物でしかない、という真理に辿り着かざるを得ない。

 人間を人間たらしめている“社会性のようななにか”は硬く分厚いようでいて、時に呆気なく瓦解する。しかもその瓦解は往々にして劇的ではない。かのユングはその“社会性のようななにか”をペルソナと呼んだが、なるほど仮面とはよく言ったものである。人は接する相手、もしくはコミュニティに応じて仮面を付け換える。ともすれば1人でいる時であっても、場に相応しい仮面を付けて大衆であろうとしているかもしれない。時にその仮面は己の心すら騙し、素顔を忘れさせるかもしれない。どの自分が本来の自分なのか、本当の意味で仮面を外すことは大人になるほど出来なくなってしまうだろう。アルコールの力で割れた仮面の下から覗く顔もまた、別の仮面なのかもしれない。終わりのない自分探し。高尚なようで滑稽にも感じられる。私は素顔を探すよりも、素敵な仮面をたくさん用意して、それらを磨くことに力を尽くしていたい。

 そんなことを考えているうちに最寄り駅に無事辿り着いた。ほとんど車の通らない大通りの横断歩道を渡る。信号が今にも点滅し始めそうだが、いつもよりわざとゆっくり歩く。人も車もいないと、道がいつもより広い。自分の周りに“空間が有る”ような感覚になる。信号が点滅する。歩幅もピッチも変えずに、空間に浸るようにのろりと歩く。果たして私は今、どんな顔をしているのだろうか。なんとなく、この仮面は大事にしていきたいと思った。

とてもありがとうございます◎◎