傍観者は諦める
私は、思春期辺りからずっと、傍観者だった。
誰が嫌いとか好きとか、そういうのがなかった。
仲間はずれとかどうでもよかった。
自分でしたこともないし、されても気にしないし、されている人を助けようと思ったこともなかった。
冷たい変わった人間だと思われていたが、私の中にはずっと『平等とは』という問いかけがあった。
以前、友人と言い合いになったことがある。
ある殺人事件の犯人が死刑になった。
ただそれだけの事件。
それについて友人は被害者側の気持ちに寄り添い、自分の事のようにつらそうに発言していた。
私はそれに違和感を感じてしまい、
『犯人の気持ちもわかってやるべきだ』
と言ってしまったのだ。
今考えると、殺人養護のような、明らかにおかしい発言なんだけど、ここには私なりの『平等』があった。
自分の家族や友人が殺されたなら被害者を悪く言うのはわかるのだが、
なんの接点もない、ニュースでしか知らない他人の情報になぜそこまで寄り添えるのか疑問だったのだ。
簡単に言うとこう思った。
殺人はいけないこと。それはわかっている。
それなら犯人がなぜそんな犯行をしてしまったのか、それを考えることも必要なことなのではないか?
なぜ片方の人間にだけ肩入れするのか?
それが他人に対する平等なのではないか?
被害者とか加害者とか以前に自分にとっては両方他人なので、どちらかに理解を示すならもう片方にも同量の理解を示すべきだと。
数年前まで接客業をしていたが、そこでも常連さんかそうでないかで態度は絶対に変えなかった。常連からしたら味気ないかもしれないが、常連じゃない人に対して申し訳なくて私はできなかった。
それもあって接客業はやめた。向いてないと思った。平等にできないなら関わらないほうがマシだと思って。
今はもうそこそこいい年になったので、弱者、傷つけられたものに寄り添うことがどれだけ大切かは理解できるようになったつもりだ。
でもまだ私の心の底には『平等とは』という言葉が潜んでいて、
どうやっても平等を実現するのは不可能だと感じている。
誰がどうしてほしいかなんて、言ってもらわないとわからない。
そしてそれをいちいち言ってくる人はまずいない。
大体はこちらから考えて動かないといけない。
人の気持ちを考えて、こうだろうな、と予想して動く。
でももしそれで他人の気分を害したら…?
ただ自分の行動原理に理由が欲しかっただけなのかもしれない。
私はこういう主義で平等に接しているだけですと、説明しろと言われたら説明できるくらいに。
結局は人間同士、平等だとかは諦めるべきなのかもしれない。
合わなければ仕方ないと、それだけなのかもしれない。
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